傅士仁の評価は?士仁の間違い?『三國志14』武将能力【三国志武将評価シリーズ・その160】|三国志14
『三國志14』三国志武将評価シリーズの第160回目は、関羽を裏切って呉に寝返った傅士仁(ふしじん)についてお届けします。
また「傅士仁」という名前が本当に間違っているのか、「士仁」が正しいのかについても考察します。前回の許靖は以下のリンクから。
人物について
「「傅士仁」は「士仁」の間違い」と断定する意見(「士仁が絶対正しい説」「正史では「士仁」が正しい、「傅士仁」は間違い説」)が日本で広まっているようなので、このことについて述べるため、急遽傅士仁の回にしました。
傅士仁、字は君義(くんぎ)。「傅士仁」という表記は陳寿の記した『三国志』「蜀書」関羽伝において使われています。
呉の韋昭が編纂したものがもととされる『三国志』呉書「呉主伝」「呂蒙伝」、および「蜀書」楊戯伝で引用される楊戯の『季漢輔臣賛』においては「士仁」になっています。
可能性としては、どちらでもいい(どちらでも呼ばれていた)のかもしれませんね。後漢は2字の姓(諸葛氏、司馬氏など)がめずらしくありませんでした。もしくはどこかで改姓があったか。これについてはのちほど述べます。
とにかく、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているという強い根拠はありません。これも後述します。
傅士仁は麋芳とともに、荊州の守備をまかされていました。
傅士仁が公安に、麋芳が江陵に駐屯していましたが、2人とも荊州の総督である関羽に軽んじられていると感じ、嫌っていました。
関羽が樊城の曹仁を包囲すると、傅士仁らは軍資を供給するだけで、全力で援助することはありませんでした。
このことから関羽は、「いくさが終わったら、あの2人を始末しなければならない」といい、傅士仁らは恐れました。
この不和を呉に突かれ、傅士仁と麋芳は呉からの降伏勧告を受け入れてしまいます。こうして呉は公安と江陵を取り、関羽討伐を成功させました。
以降、傅士仁がどうなったのかは不明です。
次に「傅士仁」と「士仁」、どちらが正しいかについて述べていきます。
「傅士仁」か「士仁」か
今回はこちらのほうが本題なのですが、『三国志』内での記述(表記の揺れ)を以下にまとめます。
・陳寿の書いた『三国志』蜀書「関羽伝」では「傅士仁」。
・韋昭が編纂したものをもととしたとされる『三国志』呉書「呉主伝」「呂蒙伝」、および「呂蒙伝」で引用される『呉書』では「士仁」。
・『三国志』「蜀書」楊戯伝で引用される楊戯の『季漢輔臣賛』では「士仁」。
以上のように、3タイプに分類されます。
勝手な推測ですが、呉に移る前は「傅士仁」、呉に移ったあとは「士仁」と呼ばれるようになった可能性はありますね。
清の歴史家の李慈銘(李慈)は「士仁が正しい」としていますが、盧弼の『三国志集解』では、
「後漢には2字の姓(諸葛氏、司馬氏、夏侯氏、皇甫氏、公孫氏など)が多いため、傅士仁は誤りではない」
としています。
どちらも個人の意見でしかなく、断定するための根拠は弱いといえます。そのため、これらを根拠に断定することもできません。
事実だけを見ていくと、
「『三国志』には「傅士仁(蜀書)」と「士仁(呉書+「蜀書」楊戯の引用)」の2種類がある」
としかいえません。事実はこれだけです。
「表記の違いがある」という事実だけです。
それと後漢に2字の姓が多かったことは事実です。
また1つの姓が2つになることもあります。
たとえば諸葛亮などの「諸葛氏」ですが、その祖先の諸葛豊はもとは「葛氏」で、諸県侯に封じられたことから「諸葛氏」になりました。
中国には傅姓も士姓もあるので、なんらかの理由でこれらが複合した可能性もあります。
また朝鮮に渡った諸葛氏が、「諸氏」と「葛氏」に分かれたということもあります。
士仁が傅士仁になったり、傅士仁が士仁になったりする可能性もあるので、どちらも使われていたのかもしれません。
現状、傅士仁を完全に否定することのできる根拠がないため、
「士仁が正しい。傅士仁は間違い」
とするのは、三国志をまったく知らない人からしても、ロジック的に問題があります。
仮に傅士仁の墓が発見されて、そこの文書に「士仁」としか書いていないのであれば、それは強い根拠になるでしょう。
そこもポイントですね。
『三国志演義』や『資治通鑑』においては、「傅士仁」と記述されています。
これらの著者が、『三国志』の「呉書」を読まず、「士仁」の表記を知らないとは考えにくいことです。
とくに『三国演義』は、正史「呂蒙伝」を読まずに書けるわけもないでしょう。
そうも考えられますね。
とにかく、現状としては、「傅士仁」も「士仁」も断定できる強い根拠はないという状態であり、いわばどちらで表記しても強く否定はできないということにもなります。
でもなんで日本では、「士仁が絶対正しい説」「正史だと「士仁」、「傅士仁」は間違い説」が広まってるのニャ?
関羽伝も正史ですけどね。だから呉書だけを正史とするのも、ロジックとしておかしい気はしますけど。
調べてみたところ、大手メディアの影響力の可能性があるのかもしれません。
具体的には「ウィキペディア」と「はじめての三国志」の表記です。
これから書くことはあくまで記事の内容についての問題点の指摘であって、「ウィキペディア」や「はじめての三国志」自体を攻撃したりけなしたりする意図はまったくありません。
それをご了承のうえ、読んでいただければ幸いです。
ウィキペディアでの表記
ウィキペディアの「士仁」の項目においては、以前までは以下のようになっていました。
『三国志』楊戯伝が引用する『季漢輔臣賛』などでは「士仁」とする[1]が、関羽伝のみ「傅士仁(ふしじん)」となっており、『資治通鑑』・『三国志演義』などもこの誤りを継承している[1]。
[1]清の李慈もこの説を採っている。しかし、盧弼『三国志集解』では「後漢には二文字の姓が多いため、傅士仁は誤りではない」と述べている。
根拠が弱いのに「誤り」と断定してしまうのは主観的で、ウィキペディアという場における中立性からしても問題があります。
それも問題がありますね。正しい・間違っているにかかわらず、「なぜ「関羽伝」が間違っているのか」の理由をしっかり書くべきです。それが抜け落ちています。
ウィキペディアである以上、読み手を納得させられるぐらいがっちり書く必要があるでしょう。
変更後は以下の文章です。
『三国志』楊戯伝が引用する『季漢輔臣賛』などでは「士仁」とする[1]が、関羽伝のみ「傅士仁(ふしじん)」となっており、『資治通鑑』・『三国志演義』などもこの表記を継承している[1]。
「誤り」→「表記」に変えました。
「関羽伝のみ」という書き方も正直ひっかかりますね。
「『三国志』の「蜀書」、「呉書」、引用の「季漢輔臣賛」で表記が違う」というような書き方をしたほうがいいとは思います。
根拠もなく、どれが間違いかを判断するべきではないかと。
しっかりとした根拠を書いて読み手が納得すれば、「関羽伝が間違っている」でもいいのです。
『季漢輔臣賛』や李慈銘の説だけでは、傅士仁を否定するには弱すぎるとは思います。
そもそも『季漢輔臣賛』は「士仁」と書いているだけで、「傅士仁」を否定する内容ではありません。
事実だけを述べれば、「どちらの表記も存在する」としかいいようがないのです。
なんにしろ、説明不足感は否めません。
「はじめての三国志」での表記
おそらくこれも影響力が大きいのではないかと思います。
「はじめての三国志」の「士仁(しじん)は何で関羽を裏切ったの?呉へ降伏してしまった蜀の武将」の記事を見ていきましょう。
さて彼の名前は士仁よりも三国志演義に記されている傅士仁の方だと知っている方はいるはずだと思います。
しかし本当の名は士仁であるのに、なぜ三国志演義だと傅士仁となってしまったのでしょうか。
これが前提で、記事ができてしまってるのが問題ですね。
続けて読んでいきましょう。
後世に蜀の名将や活躍した文官達の記述をまとめた「季漢輔臣賛」を書いた楊戯は彼の名を士仁と記しております。
「季漢輔臣賛」は先ほども述べたように、『三国志』蜀書「楊戯」で引用されているものです。ここで「士仁」と書かれていることは事実ですので、この文章は問題がありません。
しかしさきほども述べたように、「季漢輔臣賛」には「士仁」と書かれているという事実があるだけで、「傅士仁」を否定する根拠ではありません。
問題はその次です。
しかし関羽伝のみ士仁の名で記されておらず傅士仁として記されていることが原因で、三国志演義にも彼の名前は士仁ではなく、傅士仁として記されてしまうことになります。
関羽を裏切った悪者として三国志演義では書かれ、本名も違う名前で後世に伝わってしまった可哀想な人です。
「関羽伝のみ」という引っかかりのある言い方がウィキペディアっぽいのですが(これをいうと、韋昭が編纂したものがもととなっている「呉書」と、楊戯の「季漢輔臣賛」のみ「士仁」と記されているという言い方もできてしまいます)、とにかく「傅士仁は絶対間違い」という前提で記事が作られてしまっています。
これを読んだ人たちが「士仁が正しい、傅士仁は間違い」と思い込んでしまう可能性はあるでしょう。
ニコニコ大百科の記述
意外に客観的で中立でした。
士仁(しじん、生没年不詳)とは、中国・三国時代の蜀漢に仕えた将軍である。字は君義。傅士仁(ふしじん)という名でも呼ばれる。
「『三国志』ではどちらも使われている」というのが、事実かつ中立といったところでしょう。
まとめ
事実だけを書けば、
「『三国志』には,
・「士仁」(呉書「呉主伝」「呂蒙伝」+引用「季漢輔臣賛」)
・「傅士仁」(蜀書「関羽伝」)
の2つの表記がある」
というだけの話であり、どちらが正しいとは言えません。
学者では、李慈銘(李慈)は「士仁が正しい」とし、盧弼は「後漢は2字の姓が多いので、傅士仁は間違いではない」としています。研究者によっても意見が分かれていますが、どちらも強い根拠があるわけではありません。
どちらの姓でも呼ばれていたかもしれませんし、途中で姓が変わったのかもしれません。現状、それはわかりません。
そういうわけで、
「『三国志』では「士仁」「傅士仁」の2種類の表記がある」
というような、ニコニコ大百科的な表記が一番客観的です。「傅士仁」が間違いというわけではないのです。もちろん正しいというわけでもありません。断定はできないということなのです。
世の中の物事って、グレーなものが多いのですよ。
それなのに「0か100か」みたいに断定してしまうのは、わかりやすい反面、危険もはらんでいるとは思います。
次に傅士仁の能力を見ていきましょう。
基本ステータスについて
統率:43
武力:61
知力:37
政治:19
魅力:17
主義:我道
政策:雁行強化(Lv2)(雁行陣形の効果が上昇)
親愛武将:虞翻、麋芳
嫌悪武将:関羽
知力・政治・魅力も低いので、太守を任せるのは厳しい気はしますね。シリーズ通しても、能力はたいして高くはありません。
降伏勧告の使者が虞翻だったというのがありますね。ただ虞翻は、降伏者に対しては、あまり良くは思っていませんでした。
個性について
小心:命令設定で、敵接近時「攻撃」、自主退却「不可」、追撃「許可」が選択不可。
優柔:自ユニットが「足止」にかかっている期間を延長。
戦闘に出すと面倒そうですね。
陣形と戦法
雁行
火矢:発火。対拠点可。
出陣させるのは、人手が足りないときぐらいでしょうか。バッド個性もありますし、あまりメリットがありませんね。
総論
傅士仁は武官タイプの武将といえますが、武力は60台あるものの、統率は40台です。
また知力・政治・魅力も低く、内政にも使いにくいです。個性は「小心」「優柔」とバッドなものがそろっていますし、戦法も「火矢」のみなので、出陣させても微妙な感じになるでしょう。
人手不足の地域を手伝わせるのがよさそうです。
次回は許劭を予定しています。【追記】次回出来ました。それと今回の記事を動画化しました。