『三國志14』武将能力:許靖の評価は?【三国志武将評価シリーズ・その159】|三国志14
『三國志14』三国志武将評価シリーズの第159回目は、劉備を天子(皇帝)につけて蜀の司徒となった許靖(きょせい)についてお届けします。前回の陳祗は以下のリンクから。
人物について
許靖、字は文休(ぶんきゅう)。汝南郡・平輿(へいよ)県の人です。
若いころは従弟の許劭(きょしょう)とともに名を知られていました。
そうですね。字での「許子将」という呼び方のほうが知られているとは思います。ちなみに前回の陳祗(ちんし)は、許靖の兄の外孫にあたります。
許靖も許劭同様、人物評価で名を挙げていたのですが、2人の仲はあまりよくなかったといいます。
許劭は汝南郡の功曹になりましたが、許靖を推挙することはありませんでした。そのため許靖は、馬磨きをして生活を立てていました。
汝南郡の太守が劉翊になると、許靖は計吏に推挙され、さらに孝廉に推されて尚書郎になりました。
朝廷で董卓が権力を握ると、許靖は周毖(しゅうひ)とともに、そのもとで人事として働きます。汚職官僚を追放し、昇進の遅れている優秀な人材を抜擢しました。
また韓馥を冀州の牧に、劉岱を兗州の刺史に、孔抽を豫州の刺史に任じたりしました。しかし、のちに彼らは反董卓連合を形成します。
董卓はこの事態を知り、
「おまえらが優れた人物を抜擢するべきだというから、その意見に従ったというのに、任地に着いたとたんに反旗を翻すとは、どういうことなのだ!」
と怒り、周毖を処刑してしまいました。
一方の許靖ですが、董卓のもとから逃げ、孔抽や王朗などのもとに身を寄せます。
また許靖は親族や同村の者たちを引き取り、生活の面倒をも見ていました。
孫策が王朗のところへ攻め込んでくると、許靖は親族らとともに、交州へ逃げました。
このとき、許靖は同行者を先に船に乗せ、皆が出発したあとに岸を離れたといいます。
交州の支配者といえば士燮(ししょう)ですが、彼は許靖を手厚く歓迎しました。
おなじく交州に逃れていた儒学者の袁徽は、荀彧に手紙を送り、許靖の人柄を誉めそやしました。
曹操は荀彧から話を聞くと、さっそく使者を派遣して招聘しようとします。
しかし使者の招聘の仕方が強引であったことから、許靖はこれを断りました。
のちに劉璋からも招聘の使者が来たので、許靖はこれを受け入れて蜀に入ります。
許靖は劉璋から、巴郡・広漢郡の太守に任じられます。
劉備が蜀に攻めてきて、成都を包囲すると、許靖は劉璋を見捨て、城壁を越えて投降しようとしました。しかしこれが失敗してしまいます。
成都を落としたのち、劉備は許靖のおこないを知って腹を立て、起用しませんでした。
そこで法正は、
「世の中には名声があるにもかかわらず、実質がともなっていない者がいます。許靖がまさにその一人でしょう。しかし許靖は名の知られた人物なので、これを起用しなければ、世間からは『賢者を蔑(ないがし)ろにする』と思われてしまいます」
といい、許靖を起用させます。
許靖は劉備のもとで働き、劉備が漢中王や天子(皇帝)になるのを手助けしています。劉備が天子になると、許靖は司徒に任じられました。
許靖は70歳を超えても、人を慈しみ、後進を導きました。そのため諸葛亮ら蜀の臣は皆、許靖に敬意を払っていたといいます。
善良な人物という記述が多いですし、善良な人だったのは間違いないでしょう。
今回はそんな許靖の能力を見ていきましょう。
基本ステータスについて
統率:3
武力:5
知力:67
政治:79
魅力:68
主義:名利
政策:太学(Lv3)(配下武将の経験獲得量が上昇)
親愛武将:袁渙、王商、王朗、華歆、許貢、士燮、陳羣
政治がぎりぎりで80に届いていませんね。『三国演義』での出番もあまりありませんし、成都から逃げようとしたあたりで魅力が落とされてしまったのかもしれません。シリーズ通しても、だいたいこんな感じのステータスですね。
顔の広い人物でしたしね。法正がいうように、許靖を起用するのは重要なことだったとは思います。
個性について
名声:地域担当官に任命すると土地占領が拡大。捕虜になったときの身代金が増加。
人脈:登用、探索にかかる日数が短縮。
ただ「名声」に「人脈」と、許靖の特徴はよくとらえられているとは思います。文官としては使いやすい能力ですね。
陣形と戦法
鶴翼
土地の塗りつぶしをしてもいいかもしれません。
無し。
統率・武力が一桁ですし、戦わせる必要もないでしょう。
総評
許靖は文官タイプの武将ですが、能力自体は取り立てて高くはありません。政治は80台に届かず、知力・魅力は60台です。
また統率・武力は一桁台で、戦法もありません。劉禅とおなじレベルです。
ただ個性には、「名声」「人脈」といった使いやすいものがあるので、探索・登用や、占領地拡大に役立てていくといいでしょう。
次回は続けて許劭を予定しています。【追記】「正史では「傅士仁」ではなく「士仁」が正しい説」が日本でやけに広まってしまっているため、急遽、次回を傅士仁に変更しました。許劭はその次になります。