『信長の野望・新生』武将能力:細川晴元の評価は?【武将評価シリーズ・その75】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第74回目は、室町幕府に代わって堺公方府を打ち立てた細川晴元(ほそかわはるもと)です。
それでは能力を見ていきましょう。前回の穴山梅雪(信君)は以下のリンクから。
人物について
細川晴元は永正11年(1514年)、細川澄元の子として生まれました。幼名は聡明丸。
細川家は室町幕府の管領職を世襲しており、実質裏で幕府を支配していました。
祖父・細川政元は子がおらず、父・澄元は養子として迎え入れられています。
他にも細川澄之・細川高国という養子がおり、祖父の死後に養子間で後継者争いが起こりました。
この争いによって父・澄元は細川高国との戦いに敗れて死去。晴元は7歳で家督を継ぎます。
細川高国は足利義晴を将軍に擁立し、室町幕府を支配しました。
13歳になったころ、家臣である三好長慶の父・三好元長の支えによって挙兵し、細川高国に勝利します。細川高国は足利義晴とともに逃走しました。
晴元は足利義晴の弟・足利義維を擁立し、室町幕府に代わる「堺公方府」を開きました。
そののちも細川高国とのいくさは続き、最終的には晴元が勝利します。
しかし晴元は堺公方府を支えるどころか、足利義晴と和解して自らが室町幕府の管領につこうと考えたのです。
当然、これまで支えてきた三好元長や足利義維とは仲が悪くなっていきます。
そこで晴元は、邪魔な三好元長を始末するため、山科本願寺の手を借りて一向一揆をぶつけることにしました。これによって三好元長は自害してしまいます。怒りのあまりに、切腹したときに臓物を天井へ投げ付けたともいわれます。
晴元は足利義晴と和解し、天文3年(1534年)には三好元長の嫡男・三好長慶とも和睦して家臣に組み入れています。
しかし、やがて三好長慶は反乱し、晴元を京から追い出してしまいました。
こうして京都は三好長慶が支配します。
以降、三好長慶との戦いは続きましたが、最終的には和睦したものの、普門寺に幽閉されてしまいました。そしてそこで亡くなります。享年50歳だったといいます。
基本ステータスについて
統率:57
武勇:46
知略:56
政務:72
主義:保守
政務は72と、細川晴元よりは高いですね。
過去作でもこんな感じなので、凡将といったところです。
戦法・特性について
(戦法)
同討:敵部隊の兵力減少。
(特性)
能弁:外交取次時の信用上昇量増加。
巧言:他勢力との交渉に関する具申が可能。
「能弁」「巧言」があるので、外交で活躍させていくのがよいでしょう。
総評
細川晴元は能力値低めの武将です。
政務72以外は40~50台のステータスです。
ただ「能弁」「巧言」があるので、外交面で活躍させていけばよいでしょう。
次回は丹羽長秀です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。