『信長の野望・新生』武将能力:大内義隆の評価は?【武将評価シリーズ・その52】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第52回目は、西国一の戦国大名といわれた大内義隆(おおうちよしたか)です。
人生の後半のイメージが悪かったというのがありますが、為政者としては優秀だったともいわれますね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の陶晴賢は以下のリンクから。
人物について
大内義隆は永正4年(1507年)、大内義興の嫡子として生まれました。幼名は亀童丸。
享禄元年(1528年)に義興が亡くなったことで、義隆が家督を相続しました。
大内氏は北九州をめぐって、少弐氏や大内氏と争っていました。このときに活躍していた家臣が、陶晴賢の父・陶興房です。竜造寺氏の力も借り、天文5年(1536年)には北九州をほぼ平定します。
天文9年(1540年)には、尼子経久の孫・尼子晴久が安芸国へ攻め込んできましたが、陶晴賢が軍を率いてこれを撃退しました。
しかし天文11年(1542年)、出雲国へ攻め返した「月山富田城の戦い」においては大敗。戦争や領土に興味を無くし、文化人として道を歩み始めました。陶晴賢ら武断派を遠ざけ、文治派の相良武任を重用するようになります。
日本に来ていたフランシスコ・ザビエルとも引見し、布教の許可をあたえています。
やがて武断派との対立は深刻化し、ついには陶晴賢が謀反の兵を挙げます。
義隆は大寧寺に立てこもりましたが、最後には自害。享年45でした。
こうして大内氏は事実上滅亡し、家督は大友宗麟の異母弟・晴英(のちの大内義長)が引き継ぎました。
基本ステータスについて
統率:75
武勇:50
知略:68
政務:85
主義:保守
文化人という感じの人物ですしね。
統率は75あるので、戦闘で使えないこともありません。
「烈風伝」あたりまでは政務40台、それ以外は30以下とかなり低い評価を受けていましたが、嵐世紀からは急に政務が80台になって躍進しましたね。評価がだいぶ見直された形になっています。
戦法・特性について
(戦法)
攪乱:敵部隊の体力低下。
(特性)
人脈:遠国登用に関する具申が可能。
数奇:家宝をまれに入手。
「人脈」「数奇」の2つしかないので、外交で役立てていくのがよいですね。
総評
大内義隆は文官タイプの武将です。
政務は85、統率も75あるので、戦闘で使えないことはありません。
毛利・島津・長宗我部と、周囲は武闘派ばかりですが、うまく立ちまわって生き延びましょう。
次回は尼子経久です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。