『信長の野望・新生』武将能力:大友宗麟の評価は?【武将評価シリーズ・その39】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第39回目は、九州のキリシタン大名・大友宗麟(おおともそうりん)です。
海外貿易による経済力や外交力を駆使し、大友氏の最盛期を築いた人物でもあります。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の島津歳久は以下のリンクから。
人物について
大友宗麟は享禄3年(1530年)、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として生まれました。幼名は塩法師丸。
元服すると、室町幕府12代将軍・足利義晴から「義」の字を賜り、「義鎮」と名乗ります。「宗麟」はのちに出家したときの法名ですね。
宗麟は気が荒かったため、父・義鑑は三男(宗麟の異母弟)の大友塩市丸を溺愛していました。そして宗麟を廃嫡し、塩市丸に家督を継がせようとしたのです。
これにより、大友氏は義鑑派と塩市丸派に分かれてのお家騒動がはじまります。
父・義鑑は宗麟を湯治に向かわせ、そのあいだに義鎮派の粛清を試みましたが、反撃にあって塩市丸とその母は殺されました。また義鑑もこのときの傷がもとで亡くなりました(二階崩れの変)。
これを知った宗麟は、重臣・立花道雪とともに事態の収拾にあたります。
首謀者である入田親誠を討伐し、反対派をおさえこんで家督を継ぎます。
天文20年(1551年)、大内義隆が家臣・陶隆房の謀反にあって自害。陶隆房の要請もあり、宗麟は弟・大友晴英(義長)に大友氏の家督を継がせました。
これによって大友氏の勢力をも取り込んで、勢力を大きく拡大していきます。さらに海外貿易も拡大し、経済的にも多大な利益を得ました。
その一方で、キリスト教に傾倒していったことや、フランシスコ・ザビエルら宣教師に領内での宣教を許したことから、家臣たちとの軋轢を生むことともなりました。実際、謀反もおこされています。
大内氏を継いだ弟・義長が毛利元就に攻め込まれて滅ぼされると、宗麟はこれと対立することとなります。宗麟は元就と内通していた秋月文種を討ち、北九州の支配権を確保しました。
やがて九州の覇権をかけて、島津義久ら四兄弟と対立することとなります。
天正6年(1578年)の「耳川の戦い」においては、島津氏お得意の「釣り野伏」を食らって大敗します。これによって島津氏が勢力を伸ばし、さらに龍造寺隆信も躍進していく一方、大友氏は衰退していきました。
天正12年(1584年)の「沖田畷の戦い」において、島津家久らが竜造寺隆信を討ち取りました。これに対し、宗麟は立花道雪に筑後国奪回を命じますが、翌年に道雪が亡くなってしまいます。
家臣である高橋紹運・立花宗茂の父子が島津氏の北上を食い止めるも、もはや島津氏の勢いを止めることは不可能になりました。
そこで宗麟は豊臣秀吉に謁見し、臣下になるのとひきかえに援軍を要請。仙石権兵衛(秀久)率いる先鋒隊がやってくるものの、島津氏に壊滅させられてしまいます。
島津氏は大友領を蹂躙し、立花宗茂の守る立花山城などわずかな城だけが抵抗しているというありさまでした。ちなみに防衛戦において宗麟は南蛮渡来の大砲「国崩し」をつかっています。
豊臣本体の大軍がやってくると、島津氏は大友領から撤退し、最終的には降伏します。
こうして大友氏はぎりぎり存続できたのですが、宗麟自身は島津義久の降伏直前に病死してしまいました。享年58歳でした。
基本ステータスについて
統率:77
武勇:69
知略:81
政務:89
主義:革新
実際、戦争よりも外交や貿易が得意な人物でしたしね。
知略も過去作では60台ぐらいだったのですが、80越えで高い評価に変わっていますね。
統率も77ありますので、戦闘でも活躍できるでしょう。
戦法・特性について
(戦法)
同討:敵部隊の兵力減少。
(特性)
射手:合戦で積極的に高所から攻撃。
巧言:他勢力との交渉に関する具申が可能。
砲術:自部隊の鉄砲LV上昇。
「巧言」もありますし、外交面でも活躍していけるでしょう。
総評
大友宗麟は文官寄りながらも、全体的にバランスのとれたステータスになっています。
統率77・知略81ありますので、戦場でも活躍できるでしょう。
また部下には立花道雪や高橋紹運、立花宗茂など優秀な人材もいますので、うまく島津氏に対抗していきましょう。
次回は立花道雪です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。