『信長の野望・新生』武将能力:仙石権兵衛の評価は?【武将評価シリーズ・その34】

2023年2月12日武将能力評価信長の野望, 信長の野望・新生武将評価シリーズ

sengoku gonbee

『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第34回目は、豊臣秀吉最古の家臣で、大名にまでのぼり詰めた仙石権兵衛(せんごくごんべえ)(仙石秀久)です。

漫画「センゴク」の人ニャ。  

漫画の方は、後半は秀吉が主人公みたいになってましたね。

そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の島津家久は以下のリンクから。

 

人物について

仙谷権兵衛(秀久)は天文21年(1552年)、仙石久盛の四男として生まれました。

もともと家督を継ぐことはできず、萩原国満のもとへ養子に出されていました。

しかし織田信長斎藤龍興の対立から、仙谷家は信長につくため、長男の仙石久勝を廃嫡にして、権兵衛を呼び戻しました。こうして権兵衛は家督を継ぐこととなったのです。

権兵衛はわずか14歳で信長のもとへ出仕し、信長から気に入られて召し抱えられました。そして秀吉の与力となったのです。

若くして出世の芽が出たのニャ。

「姉川の戦い」においては、山崎新平を討ち取った功績により、天正2年(1574年)、秀吉から近江国野洲郡に1,000石を与えられて領主となりました。

子にもめぐまれ、10男6女をもうけています。

子だくさんなのニャ。

秀吉の中国出兵においては、黒田官兵衛らとともに淡路島の岩屋城・由良城を陥落させています。

本能寺の変後は、四国の長宗我部元親を相手に、十河存保とともに戦います。敗戦続きだったものの、瀬戸内海の制海権を死守したことを秀吉に評価され、淡路国5万石を授けられて大名となりました。

秀吉は四国平定後、九州平定をめざして島津家と対立します。

この先鋒として、権兵衛は長宗我部元親・信親や、十河存保の連合軍を率いて九州へ向かいました。

しかし待ち構えていたのは、前回登場した島津家久。

権兵衛は豊臣軍本体が到着するまで待機を命じられていたのですが、これを無視。戸次川での大乱戦の末、長宗我部信親・十河存保の二将が討ち取られて敗北しました(戸次川の戦い)。

当然、秀吉は大激怒。領土没収の上に高野山で謹慎となりました。

ルイス・フロイスの「日本史」においては、「豊後国に跳梁している最悪の海賊や盗賊は仙石の家来や兵士に他ならない。恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り盗み取ること以外目がなかった」と、酷評されています。

ボロクソいわれてるニャ。

権兵衛の名誉回復は、秀吉の小田原征伐においてです。

20名の旧臣らとともにはせ参じ、敵を引き付けるため、鈴を陣羽織一面に縫いつけ、戦場を暴れまわり、「鈴鳴り武者」とよばれました。

このときの働きによって、秀吉から旧領の半分に相当する5万石を信濃国小諸に与えられ、大名としての復帰を果たします。

なんとか大名に返り咲けたのニャ。

関ヶ原の戦いにおいては、徳川家康側に付きます。

徳川秀忠の軍に合流し、上田城の真田昌幸を相手にします。ここでの苦戦で足止めをされてしまいました。

権兵衛は自身を人質にして、秀忠を関が原へ急がせることを提案しましたが、秀忠に却下されます。これがもとで関ケ原到着が遅れてしまい、秀忠は家康の怒りを買いました。このとき、権兵衛がかばったことから、秀忠に重用されることとなります。

江戸幕府が開かれると、小諸藩の藩主として地域の発展に尽力します。とくに蕎麦の生産に力を入れたことから、現在でも小諸は蕎麦の有名な産地となっています。

小諸そばニャ。

慶長19年(1614年)、権兵衛は江戸から小諸へ帰る途中に病死しました。享年63歳だったといいます。

当時としてはけっこう長生きしたほうニャ。

 

基本ステータスについて

統率:51
武勇:84
知略:55
政務:33
主義:革新

思ったより統率が低いニャ。

個人プレイが多かったですし、いくさはあまりうまくはなかったですね。

過去作だと統率30~40台ぐらいでしたし、むしろ本作は数値が高いほうです。漫画の影響も大きいですね。

 

戦法・特性について

(戦法)
急襲:敵部隊の兵力減少。

(特性)
攻勢:自部隊の攻撃上昇。

血気:合戦で積極的に部隊を攻撃。

普通といったところニャ。

「攻勢」があるので攻撃力の補正にはなるでしょう。

 

総評

仙石久秀は猛将タイプの武将です。

武勇は84あるものの、統率は51と低めです。

ポジションとしては中堅武将といったところなので、他の有能な武将と組ませるとよいでしょう。

名誉挽回でがんばるのニャ。

次回は島津義久です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。