『信長の野望・新生PK』武将能力:ねね(高台院/北政所)の評価は?【武将評価シリーズ・その164】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第164回目は、豊臣秀吉の正室であるねね(高台院/北政所)(こうだいいん/きたのまんどころ)です。
司馬遼太郎の小説「城塞」でも、徳川家康側とのパイプ役として印象深い人物で描かれていますね。
「秀吉忍者説」から派生したのかもしれませんね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の帰蝶(濃姫)は以下のリンクから。
人物について
ねね(高台院/北政所)は天文18年(1549年)、織田信長に仕えた杉原定利の娘として生まれたとされています。
永禄4年(1561年)に秀吉と結婚。農民出身の秀吉とは身分差があったため、恋愛結婚だったといわれていますね。
夫婦仲はよかったのですが、子が生まれませんでした。代わりに福島正則や加藤清正、石田三成など子飼い武将たちを養育していました。
天正13年(1585年)、秀吉が関白になると、ねねは「北政所」と呼ばれるようになります。小説「城塞」でも北政所の名がつかわれていますね。
秀吉が亡くなると、ねねは淀殿とともに豊臣秀頼の後見人となりました。政治的な権力は、秀頼を生んだ淀殿のほうが強くなっていました。このことから、両者の不和説、さらにはこれを理由に家康側に取り入った説もあります。
慶長8年(1603年)、秀頼と、徳川秀忠の娘・千姫の婚儀ののち、仏門に入って高台院快陽心尼(のちに高台院湖月心尼)と号します。秀吉を弔うため、京都東山に高台寺を建立し、その門前に屋敷を構えました。
「大坂夏の陣」においては徳川と豊臣の交渉役となっていました。しかし豊臣側は大阪城からの撤去を飲まなかったため、滅ぼされてしまいます。
豊臣政権が滅びたのちも、ねねは家康とは良好な関係を続けていました。
寛永元年(1624年)に死去。享年76歳だったといいます。
基本ステータスについて
統率:77
武勇:48
知略:80
政務:74
主義:革新
政務も74あり、中の上といった能力ですね。かなり特別扱いされている感があります。
戦法・特性について
(戦法)
攪乱:敵部隊の体力低下。
(特性)
人脈:遠国登用に関する具申が可能。
差配:戦場で積極的に味方部隊を救援。
破策:所属城にかかる調略の成功率減少。
(家宰)
人材重用:忠誠上昇、兵糧収入減少。
(奉公)
羽柴伝:検地・刀狩が発令可能、すでに発令可能なら維持費削減。
調略の成功率を下げてくれるので、要所においておくとよいでしょう。
総評
ねねはバランスの取れた中堅武将です。
統率77・知略80と高いステータスになっており、政務も74あります。
「人脈」「破策」も持っていますので、うまくつかっていくとよいでしょう。
次回は徳川秀忠です。【追記】次回できました。以下のリンクから。