『信長の野望・新生』武将能力:島津豊久の評価は?【武将評価シリーズ・その32】

2023年2月23日武将能力評価信長の野望, 信長の野望・新生武将評価シリーズ

shimazu toyohisa

『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第32回目は、島津豊久(しまづとよひさ)です。

「ドリフターズ」の主人公来たニャ。

漫画で一気に知名度が上がった感じはありますね。

そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の井伊直政は以下のリンクから。

 

人物について

島津豊久は元亀元年(1570年)、島津家久の子として生まれました。幼名は豊寿丸

家久は島津貴久の四男で、無類の戦上手としても知られています。

島津家は武闘派集団なのニャ。

豊久の初陣は天正12年3月(1584年4月)の「沖田畷の戦い」です。龍造寺隆信と、島津・有馬連合軍がぶつかり合ういくさとなりました。

この戦いにおいて、父・家久は沖田畷の湿地に敵を誘い込み、約3万の敵をわずか6千ほどの兵で三方から取り囲んで包囲殲滅したといいます(釣野伏せ戦法)。

このいくさで龍造寺隆信は討ち取られ、まだ元服していなかった豊久も敵の首級を挙げました。

こうして島津家は、九州の大勢力となったのです。

しかし竜造寺家の家老であった鍋島直茂は徹底抗戦を続け、豊臣秀吉とひそかに手を結びます。

化け猫騒動で有名な人ニャ。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定がはじまります。

仙石秀久を大将に、長宗我部元親信親の親子や、十河存保などの連合軍6千が九州へ上陸してきました。

家久はこれを迎え撃ち、乱戦の末、十河存保と長宗我部信親を戦死させました(戸次川の戦い)。

しかしそののち、豊臣軍の本体が上陸。二十万近い大軍になすすべもなく、島津軍は降伏します。これによって、島津氏は豊臣氏の傘下にくだりました。

同年、父・家久が亡くなり、豊久は18歳の若さで家督を継ぎます。そしておじの島津義弘が、我が子のように豊久を育てることとなりました。

以降、豊久は小田原城攻略や朝鮮出兵に従軍。大功を立てます。

戦いに次ぐ戦いの生涯なのニャ。

そして運命の「関ヶ原の戦い」においては、おじ・義弘とともに西軍につきました。

しかし石田三成に夜襲を進言したところ却下されてしまったことから仲たがいし、合戦においても兵を動かしませんでした。

やがて小早川秀秋の裏切りによって、東軍勝利の状況になります。

ここで義弘は、敵前を突破して退却するという豪快な退き口をおこないました。この作戦の提案をおこなったのが豊久です。

「島津の退き口」ニャ。

しかし退却において、井伊直政本多忠勝などの追跡にあいます。

豊久は、家久を逃がすため、「捨て奸(がまり)」戦法をおこないます。玉砕覚悟で敵にぶつかり、そのあいだに大将を逃がすという作戦ですね。

この戦いで、豊久は井伊直政を鉄砲で落馬させたといいます。

義弘はうまく逃げのびたものの、豊久は戦死。享年31歳だったといいます。

若くして亡くなったのニャ。

 

基本ステータスについて

統率:71
武勇:86
知略:64
政務:44
主義:革新

思ったよりも統率・武勇が高くない感じニャ。

他の武将との差別化もありますし、豊久が若いことからこれぐらいが妥当なのではないかと思います。

過去作だと戦闘が50~60台だったりしますし、むしろ評価が上がっていますね。

若造あつかいなのニャ。

 

戦法・特性について

(戦法)
早駆:自部隊の機動上昇。

(特性)
血気:合戦で積極的に部隊攻撃を行う。

反攻:城が強攻されたときに攻城部隊へのダメージ増加。

竜騎兵:自部隊の騎馬LV・鉄砲LV上昇。

ちょっと微妙な感じなのニャ。

「機動力のある血気盛んな武将」というのを表現したいのだとは思います。

 

総評

島津豊久は猛将タイプの武将で、統率71・武勇86と、上の下といったところです。

知略・政務は低めなので、機動力を活かして戦場で活躍させるのがよいでしょう。

家久・義弘と組ませて快進撃なのニャ。

次回は島津家久です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。