『信長の野望・新生』武将能力:本多忠勝の評価は?【武将評価シリーズ・その19】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第19回目は、徳川四天王の一人である猛将・本多忠勝(ほんだただかつ)です。
無双シリーズだと、呂布レベルの猛将扱いになっていますね。
それでは能力を見ていきましょう。前回の北条氏康は以下のリンクから。
人物について
本多忠勝は天文17年(1548年)、本多忠高の長男として生まれました。幼名は鍋之助、通称は平八郎。
しかし翌年に父・忠高が戦死。叔父の本多忠真にひきとられることとなります。
忠勝は幼いころから徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)、忠勝は12歳で「桶狭間の戦い」の前哨戦である「大高城兵糧入れ」で初陣を飾ります。
「桶狭間の戦い」で今川義元が戦死したのち、独立をめざす家康を忠勝が支えます。
永禄6年(1563年)の「三河一向一揆」では、一向宗(浄土真宗)の多かった本多家が敵にまわりましたが、忠勝は浄土宗に改宗して家康側に付きました。
元亀元年(1570年)、浅井・朝倉連合軍との「姉川の戦い」においては、織田信長の同盟軍として出陣した家康の軍で戦います。
敗色が強くなった織田・徳川連合軍の突破口を切り開くため、単騎で朝倉軍に突撃したといいます。家康は忠勝が殺されないよう、徳川四天王の一人・榊原康政に側面攻撃をおこなわせ、敵陣を崩して勝利しました。
やがて最強の敵である武田信玄が、元亀3年(1572年)、二俣城へと攻め込んできました。
打ち負かされて退却した家康を守るため、しんがりをつとめて退却を成功させます。
このときの活躍が見事だったことから、
「家康に過ぎたるものが2つあり。唐の頭に、本多平八」
とうたわれました。
以降もさまざまないくさで武勲を上げています。
信長の死後、天正12年(1584年)に豊臣秀吉と家康が戦った「小牧・長久手の戦い」では、圧倒的な兵力を相手に、わずか500騎で戦いました。その勇猛さから、いくさののち、秀吉にも賞賛されています。
秀吉の死後、天下分け目の戦いである「関ヶ原の戦い」においては東軍の総監(総司令官)もつとめています。
やがて慶長15年(1610年)、家康が天下をとって江戸幕府を開いてから7年後、63歳で死去します。
晩年は眼病にかかり、力も衰えたことから、愛用の名槍「蜻蛉切」を短く切って使いやすくしていました。
蜻蛉切は現存しており、静岡県の指定文化財となっています。
忠勝は生涯で57回もの戦闘に参加して、いちども傷を負ったことがないといわれています。
基本ステータスについて
統率:85
武勇:98
知略:79
政務:60
主義:中道
本作だと上杉謙信(武勇100)、真田幸村(武勇99)に次ぐ能力ですね。
立花宗茂が武勇98なので、それと並ぶことになります。「東の本多忠勝、西の立花宗茂」といわれていたので、それで調整されている感じですね。
次で説明する特性に、攻撃力バフの「攻勢」「城乗」があるので、実際の攻撃力は高くなりますね。
戦法・特性について
(戦法)
蜻蛉切:敵部隊の兵力減少、自部隊の攻撃上昇。
(特性)
無傷の誇:敵部隊を撃破すると、一定時間兵力が減少しない。
城乗:敵城への耐久ダメージ増加。
攻勢:自部隊の攻撃上昇。
特性の「無傷の誇」は、敵を撃破したあとに無敵時間が存在するというものですね。複数の敵が近くにいるときには役に立ちます。
「攻勢」「城乗」は攻撃力バフなので、ガンガン攻めていくのがいいとは思います。
総評
本多忠勝は、そのイメージどおりの猛将設定になっています。
武勇は98ありますし、「攻勢」「城乗」による攻撃力バフや、「無傷の誇」による無敵時間もあるので、どんどん敵と戦っていくのがいいでしょう。
次回は浅井長政です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。