『信長の野望・新生』武将能力:北条氏康の評価は?【武将評価シリーズ・その18】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第18回目は、「相模の獅子」こと北条氏康(ほうじょううじやす)です。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の前田慶次は以下のリンクから。
人物について
北条氏康は、戦国時代の幕開けの人物ともいわれる北条早雲の孫です。
北条氏綱の嫡男で、幼名は伊豆千代丸。
享禄3年(1530年)、上杉朝興との「小沢原の戦い」で初陣を飾り、これに勝利しました。
天文7年(1538年)には父・氏綱が隠居したことで、家督を継ぎました。
天文14年(1545年)、上杉憲政ら関東の諸勢力が、北条氏の領内に攻め込んできて、河越城を8万の大軍で包囲します。
氏康は甲冑をまとわない8千の兵を率い、夜襲にてこれを撃破。織田信長の「桶狭間の戦い」、毛利元就の「厳島の戦い」と並ぶ日本3大奇襲の1つ「河越夜戦」として知られるようになります。
この戦いの勝利で、北条氏は関東での覇権を握ることとなりました。
またその勇猛さから上杉謙信の「越後の龍」、武田信玄の「甲斐の虎」と並んで、「相模の獅子」と称されます。
天文23年(1554年)には武田信玄・今川義元との「甲相駿三国同盟」を結成します。
永禄3年(1560年)には上杉謙信が攻め込んできて、小田原城を10万の大軍に包囲されます。
氏康は小田原城に籠城し、上杉軍の攻撃に耐えました。
やがて兵糧の尽きた上杉軍は撤退。これをきっかけに、氏康は小田原城にさらなる城壁をつくってまもりを固めます。
永禄9年(1566年)、氏康は隠居し、家督を嫡男・北条氏政にゆずりました。
その2年後、「桶狭間の戦い」で今川義元が死亡。
「甲相駿三国同盟」が瓦解したことで、氏康はかつての敵・上杉謙信と手を結びます。
これよって、翌年、武田信玄が攻め込んできましたが、氏康は籠城で守り抜きました。
しかし元亀2年(1571年)には体調が悪化し、57歳で亡くなりました。
氏康は生涯で36度のいくさをおこない、背中に一度も傷を負ったことがないといいます。
また内政面にも功績があり、検地をおこなって正確に年貢をとっていました。
また「目安箱」を設置し、領民の声を直接聞くようにしていました。
このことから氏康は領民から愛され、領内では一度も一揆が起きなかったといいます。
基本ステータスについて
統率:96
武勇:87
知略:86
政務:95
主義:中道
パラメータ自体は信長型のものですね。逆にいえば特徴がないともいえますが。
政務は高めの95に設定されています。文武を兼ね備えた武将といったところです。
戦法・特性について
(戦法)
相模の獅子:自部隊の防御上昇・兵力回復。
(特性)
禄寿応穏:郡の制圧時に集落の掌握・建設状態を維持。
用兵:敵部隊を攻撃中、自部隊の攻撃上昇。
作事:城下施設の建設効率上昇。
関東勢は「防御型」というイメージがありますね。小田原城のイメージが強いからなのかもしれません。
「禄寿応穏」は、「郡の制圧時に集落の掌握・建設状態を維持できる」という、ちょっとめずらしい能力です。制圧後の面倒がちょっと減るというのがありますね。
「作事」もありますし、建設系大名といったところでしょう。
総評
北条氏康は総合ステータスも高く、内政スキルもあるので、戦争・内政ともに役立つ武将です。
郡を制圧しても建設状態を維持できる「禄寿応穏」や、建設効率アップの「作事」ので、内政にも積極的に使っていきましょう。
次回は本多忠勝です。【追記】次回できました。以下のリンクから。