『信長の野望・新生』武将能力:今川義元の評価は?【武将評価シリーズ・その13】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第13回目は、「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元(いまがわよしもと)です。
一般にはそっちのほうが有名ですね。バカ殿的なキャラ付けもありますね。
「信長の野望」シリーズだと、最初のころは二重あごの太ったおっさんでしたが、「天道」以降はイケメン化が進んでいますね。
昔のほうがわかりやすかったとは思いますね。
ただ今川氏の最盛期を築き上げた人物なので、優秀なことには間違いないでしょう。
それでは能力を見ていきましょう。前回の石田三成は以下のリンクから。
人物について
今川義元は永正16年(1519年)、今川氏親の五男として生まれました。
4歳で善得寺に預けられ、太原雪斎から教育を受けます。
天文5年(1536年)、家督を継ぐ予定の兄・氏輝と、もう一人の兄である彦五郎が突然死したことから、義元に継承権がまわってきました。
義元は還俗して家督を継承しようとしましたが、重臣の福島氏がこれに反対。義元の異母兄・玄広恵探を後継者に推します。
こうして内乱が起きましたが、義元は北条氏の力を借り、玄広恵探を自刃に追い込んで家督を継ぎました。
義元は内政に力を入れ、とくに金山開発をおこなったことから、駿河の経済は大きく躍進します。
天文6年(1537年)、甲斐国の守護・武田信虎(武田信玄の父)と同盟を結びますが、これが北条氏綱の逆鱗に触れます。
北条氏綱は駿河に攻め込み、河東を奪います。武田氏の助力があっても、これを取り戻すことはできませんでした。
天文10年(1541年)北条氏綱が死去して、北条氏康が家督を継ぎます。
同年、武田信虎が義元のもとへ訪問に来たとき、武田晴信(信玄)が道を封鎖して、父を自国に戻れないようにしました。
義元は武田信虎の身柄をあずかりつつも、信玄のほうとも同盟関係を続けていました。
天文14年(1545年)、義元は上杉憲政(上杉謙信の義父)と同盟を結び、北条氏への反撃に出ます。北条氏は、占領した領土を返すのを条件に和睦をしました。
一方、三河方面は、松平広忠が帰順したことにより、その子・竹千代(徳川家康)を人質として迎え入れます。
しかしこのとき、護送を請け負った戸田康光が裏切り、竹千代は織田家へ届けられてしまいました。
天文18年(1549年)、松平広忠が死去すると、義元は三河を支配下に置こうと派兵しました。織田家の勢力を三河から排除し、とらえた織田信広(信長の庶兄)を、竹千代と人質交換します。
天文20年(1551年)、織田信秀(信長の父)が死去すると、尾張への攻勢を強めます。
後方の憂いを断つため、武田氏・北条氏と婚姻関係を結び、天文23年(1554年)に「甲相駿三国同盟」を締結。義元は、嫡子・北条氏真と、北条氏康の娘・早川殿を婚姻させました。
永禄元年(1558年)には氏真に家督をゆずって隠居し、三河統治と尾張侵攻に力を注ぎます。
そして運命の永禄3年(1560年)、2万の軍を率いて尾張への侵攻を開始しました。
途中、桶狭間山で休息していたところを、信長による本陣へのダイレクトアタックを食らい、討ち取られてしまいます。享年42歳でした。
義元の首はのちに返還され、駿河に戻ったといいます。
義元亡き後は氏真があとを継ぎましたが、政治的空白を縫って松平元康(徳川家康)が独立します。
こうして離反が相次ぎ、今川氏は衰退していくこととなります。
基本ステータスについて
統率:94
武勇:85
知略:88
政務:94
主義:中道
パラメータ自体は伊達政宗とだいたい同じ感じですね。
過去作では知略は50~60台、武勇は60~70台、統率は70~80台と低めだったのですが、急に評価が上がっていますね。
いちおう大勢力のトップですし、それなりの能力を設定したのでしょう。
戦法・特性について
海道一:自部隊の兵力回復・防御上昇。
(特性)
公家趣味:外交姿勢が良くない勢力とも友好的に親善が可能。
一所懸命:一城に属す全郡で領内行動の集落掌握速度が上昇。
射手:合戦で積極的に高所から射撃。
外交が有利に運べる「公家趣味」は、うまく使えば戦略レベルで有利に物事を運ぶことができます。
「一所懸命」も掌握速度アップで時短にはなります。
総評
今川義元は、総合能力的には上位の武将になります。
今作では統率・武勇・知略も高く、前線で戦っていけるでしょう。
外交面では「公家趣味」をうまく使って、有利に運んでいくのがいいかと思います。
問題は歴史イベントである「桶狭間の戦い」をどう乗り切るかですね。
次回は黒田官兵衛です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。