『信長の野望・新生』武将能力:石田三成の評価は?【武将評価シリーズ・その12】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第12回目は、「関ヶ原の戦い」で西軍を指揮した石田三成(いしだみつなり)です。
その愛称が有名かどうかは知りませんが、能力を見ていきましょう。前回の島津義弘は以下のリンクから。
人物について
石田三成は永禄3年(1560年)、石田正継の次男として生まれました。幼名は佐吉です。
幼い頃の有名なエピソードとしては、「三献の茶」があります。
豊臣秀吉が鷹狩の帰りに、大原観音寺に立ち寄ったとき、寺の小僧をしていた光成がお茶を出しました。
初めのお茶は大きめの茶碗にぬるめの茶を、次は普通の茶碗に少し熱い茶を、最後は小さな茶碗に熱いお茶を出したのです。
段階的にお茶を熱くした三成の心意気に感心した秀吉は、三成を家来にしました。
ただこの話は、後世にできた逸話ともされています。
一般的に文官のイメージが強い三成ですが、秀吉の中国攻めや「賤ヶ岳の戦い」「小牧・長久手の戦い」にも従軍しています。
天正14年(1586年)、名将として知られる島左近(清興)に対し、知行の半分を与えて召し抱えたという逸話があります。
秀吉から堺奉行に任じられたときには、堺を従属させ、兵站としての機能を整えていきました。秀吉の九州攻めが成功したのは、三成の兵站運用が優れていたからともいわれます。また「太閤検地」の指揮もとっていました。
秀吉の小田原城征伐のときには、忍城の攻撃を命じられます。三成は城を水攻めしたものの戦闘が長引き、けっきょく小田原城のほうが先に陥落してしまいました。
この映画で、城を守っていた成田氏長が有名になりましたね。
秀吉の朝鮮出兵においては、三成は「朝鮮総奉行」に任じられます。いくさの長期化によって、明との講和を進めたりと独断をおこなっていたことから、武闘派の加藤清正らとの衝突につながります。
豊臣秀吉の死後、権力争いで徳川家康との対立が激化していきます。
やがて、家康の率いる東軍と、三成の率いる西軍との「関ヶ原の戦い」が勃発。いくさには敗れ、三成は捕縛されたのち、六条河原で斬首されました。享年41歳でした。
出世がかなり早く、三十代で佐和山城の城主になっていますしね。そのため、
「石田三成の身に余る物は2つある。島左近と佐和山城」
ともいわれていました。
ただ佐和山城の民には直訴を許し、年貢も公平に取り立てたことで、慕われていました。
基本ステータスについて
統率:70
武勇:61
知略:77
政務:98
主義:中道
戦場で戦うには、他の大大名と比べるとかなり劣りますね。
ただ政務は98と、信長の100に次ぐ高さになっています。これと並ぶのは家康(政務98)だけです。
文官タイプの武将と言えるでしょう。
ちなみに「天道」「革新」あたりは、統率50前後、武勇20前後とかなり低かったです。
戦法・特性について
(戦法)
混乱:敵部隊に混乱付与。
(特性)
作事:城下施設の建設効率上昇。
修繕:所属城の耐久自然回復量上昇。
能吏:街道に関する具申が可能。
「有能な内政官」というのを強調した形になっていますね。
部下にしたら内政で活かしていくのがいいでしょう。
総評
三成は内政向きの武将です。
「作事」「修繕」「能吏」といった内政スピードアップ能力を持っていますので、うまく配置していきましょう。
戦闘のほうは一級武将に比べれば劣りますが、統率・武勇・知略は60~70台ありますので、普通には戦えるでしょう。
次回は今川義元です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。