『信長の野望・新生』武将能力:加藤清正の評価は?【武将評価シリーズ・その23】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第23回目は、豊臣秀吉の子飼いの猛将・加藤清正(かとうきよまさ)です。
武勇だけでなく、藤堂高虎、黒田官兵衛と並ぶ築城名人としても知られていますね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の藤堂高虎は以下のリンクから。
人物について
加藤清正は永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国で生まれました。幼名は夜叉丸、のちに虎之助の通称で知られます。
天正元年(1573年)、清正の母と、秀吉の生母・大政所が親戚関係であったことから、清正は小姓として秀吉に仕えます。
秀吉には子がいなかったことから、妻・ねねは清正や福島正則を実の子のように育てていました。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起こって織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って明智光秀と戦います(山崎の戦い)。
翌年には「賤ヶ岳の戦い」で武勲を立て、「賤ヶ岳の七本槍」の一人とされました。
天正16年(1588年)、佐々成政が失脚すると、清正は後任として隈本城へ入り、のちに改修をして熊本城とします。
朝鮮出兵(文禄の役)においては、いくさを早くおわらせたい石田三成・小西行長らと対立。
明との和睦を清正抜きでおこなおうとするも、最終的には決裂。
「慶長の役」で清正は先鋒となり、「蔚山城の戦い」では明・朝鮮の大軍を撃退しました。しかし三成らとの対立は深まります。
秀吉の死後、朝鮮から撤兵したあとも、三成らとの対立は続きました。
清正は徳川家康に接近し、やがて家康と三成とで「関ヶ原の戦い」がおこります。ただ清正は参加できず、黒田官兵衛とともに九州の小西行長ら西軍勢力と戦っていました。この功績が認められ、肥後52万石の大名となります。
慶長16年(1611年)、二条城における家康と豊臣秀頼との和解を仲介します。帰国途中に病にかかり、熊本で死去。享年50歳でした。
ちなみに熊本城は、のちの西南戦争でも、西郷隆盛の軍を撃退しています。
引き際、西郷隆盛は「新政府軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」と述べたといわれます。
基本ステータスについて
統率:82
武勇:89
知略:78
政務:70
主義:革新
「革新」あたりから90台まで登ったのですが、本作ではぎりぎり届かない数値になっていますね。統率も抑え気味になっています。
筆者としては政務はもうちょっと高くてもいい気はします。統治能力は高かったと思いますね。
戦法・特性について
(戦法)
急襲:敵部隊の兵力減少。
(特性)
乾坤:合戦で積極的に退き口を攻撃。
攻勢:自部隊の攻撃上昇。
修繕:所属城の耐久自然回復量上昇。
藤堂高虎は持ってますが、黒田官兵衛はありませんね。
固有スキルはありませんが、「攻勢」があるので攻撃力はパラメータ以上になるとは思います。
総評
統率・武勇は80台で、「攻勢」も持っているので、戦闘は申し分ないでしょう。
「修繕」持ちですが、一方の政務は70とぎりぎり及第点といったところ。
なんにしろ、総合能力の高い武将なので上手く使っていくのがいいでしょう。
次回は、秀吉のもう一人の子飼いである福島正則です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。