『信長の野望・新生』武将能力:真田幸村の評価は?【武将評価シリーズ・その7】

2023年2月23日武将能力評価信長の野望, 信長の野望・新生武将評価シリーズ

yukimura sanada

『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第7回目は、徳川家康を追い詰めた真田幸村(さなだゆきむらです。

日本一の兵ニャ。戦国時代の呂布ニャ。

キャラ的には呂布というより趙雲タイプですね。呂布はどちらかといえば本多忠勝とは思います。

それでは能力を見ていきましょう。前回の毛利元就は以下のリンクから。

 

人物について

幸村」という名、生前に使われたことはなく、諱は「信繁(のぶしげ)」です。

「幸村」の名は、江戸時代に入ってから物語などでつかわれはじめ、定着してしたとされています。

真田信繁だとわかりづらいニャ。

この記事ではわかりやすいように「幸村」をつかいます。

幸村は、真田昌幸の次男として生まれました。母は山手殿、兄は真田信之(信幸)です。

真田氏は甲斐の武田信玄に帰属していました。ちなみに信玄の弟に武田信繁がいますが、幸村がその名をもらったともいわれています。

武田家が滅亡したのち、父・昌幸は織田信長の傘下に入ります。

信長が本能寺で亡くなったのちは、上杉氏に従属しました。天正13年(1585年)、幸村は人質として上杉氏に送られます。

同年、徳川家康と父・昌幸がいくさとなり、「第1次上田合戦」が勃発します。

家康との争いを調停したのは、信長の死後に台頭した豊臣秀吉です。

秀吉は、父・昌幸に、長男の信之の妻として、家康の家臣・本多忠勝の娘・小松姫(稲姫)を迎え入れさせます。

また幸村は、人質として大阪城に送られ、大谷吉継の娘・竹林院を妻としました。

こうして兄弟が徳川と豊臣に分かれたのニャ。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いのときには、父・昌幸と幸村は石田三成側の西軍に、兄・信之は家康側の東軍につきました。

これは、「どちらが勝っても真田家は残る」という思惑から分かれたともいわれています。実際、信之のほうの一族は明治維新まで続いたそうです。

計画通りなのニャ。

幸村らの目的は、徳川秀忠の軍を上田で足止めすることです。「第2次上田合戦」ですね。

足止めのほうは成功しましたが、関ヶ原の戦いで西軍は敗北。

幸村ら親子は死罪となるところでしたが、信之の懇願によって高野山への流罪となりました。

東西でわかれたのがよかったのニャ。

慶長19年(1614年)、徳川氏と豊臣氏の対立が激化すると、幸村は高野山を脱して大阪城入りします。「大坂冬の陣」では、大河ドラマのタイトルにもなった「真田丸」を大阪城の南側につくりました。

鉄壁の守りで幸村の名は天下に響き渡りますが、結局両軍は講和し、真田丸は取り壊されてしまいました。

大坂夏の陣」においては、野戦をするしかなくなったものの、幸村は家康のいる本陣を二度にわたり急襲し、あと一歩のところまで追い詰めました。家康は自害を覚悟したともいいます。

どんだけなのニャ。

しかしいくさには敗れ、安居神社で身を休めていたところを、西尾宗次に討ち取られたといいます。

壮絶な生涯なのニャ。

 

基本ステータスについて

統率:88
武勇:99
知略:84
政務:43
主義:革新

武勇99ニャ。

戦闘ステータス的には上杉謙信に劣りますね。ただ謙信に続くナンバー2の武勇の高さです。

それと、次で述べる「日本一」の特性によって、自分より上位の敵に対するジャイアントキリングが可能になります。

 

戦法・特性について

(戦法)
六文銭:敵部隊の兵力減少、自部隊の攻撃力上昇。

(特性)
日本一:大名部隊・軍団長部隊と交戦中は攻撃・防御上昇。

堅陣:一門武将の能力経験値が増加。合戦で積極的に要所・退き口を防御。

馬術:自部隊の騎馬LVが上昇。

ここで注目したいのは「日本一」の特性ですね。

相手が大名部隊・軍団長部隊である場合、攻撃・防御が上昇します。

自分より格上の相手に対してバフがかかりますので、ジャイアントキリングを狙っていくのがいいでしょう。

 

総評

戦闘パラメータは高く、武勇は謙信に次ぐ2位の99です。

また大名部隊・軍団長部隊に対して攻撃・防御にバフのかかる「日本一」があるので、敵本体を積極的に狙っていくのがいいでしょう。

史実とおなじ、本陣突入型の武将なのニャ。

次回は明智光秀です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。