『信長の野望・新生PK』武将能力:徳川秀忠の評価は?【武将評価シリーズ・その165】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第165回目は、徳川家康の子で江戸幕府2代目将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)です。
遅刻したこと自体は事実ですしね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回のねね(高台院/北政所)は以下のリンクから。
人物について
徳川秀忠は天正7年(1579年)、徳川家康の三男として生まれました。
家康の嫡男であった松平信康は織田信長の娘・徳姫を妻としていましたが、不仲であったことや武田勝頼との内通を疑われたことなどから信長の怒りを買い、切腹をさせられます。
また次男の結城秀康は秀吉の養子に出されたのち、結城晴朝の養子になったことから、継承権が秀忠のもとに転がり込んできました。
天正18年(1590年)、小田原征伐の人質として秀吉のもとへ参じ、織田信雄の娘で秀吉の養女となっていた小姫(春昌院)を妻として迎え入れることとなります。またこの時期に元服し、秀吉から「秀」の字を賜って「秀忠」となりました。ただ小姫との婚姻は、信雄と秀吉の不仲で成立しませんでした。
文禄4年(1595年)、浅井長政とお市の三女であり、秀吉の養女となっていたお江と婚姻を結びます。秀吉は、お江に娘が生まれたら、後継者の豊臣秀頼と結婚させて徳川家との結びつきを強くすることをもくろんでいました。こうして誕生したのが千姫です。
またお江は江戸幕府3代目将軍・徳川家光も生んでいます。
秀忠を悪い意味で有名にしたのは、「関ヶ原の戦い」での遅刻事件です。
秀忠は家康とは別部隊で進軍し、途中、真田昌幸・真田幸村のいる上田城を攻撃。数では勝っていたものの、真田の守りはかたく、けっきょく落とすことはできませんでした。こうして関ヶ原の決戦から5日後に到着してしまい、家康に叱責されたといいます。
江戸幕府を開いた家康は、慶長10年(1605年)に秀忠に将軍職を譲り渡します。ただ実際のところは、大御所として政治に口出しをしていました。
家康の死後は中央集権化を促進し、幕府の長期政権の基礎をつくりました。
元和9年(1623年)に家光に将軍職をゆずったものの、家康とおなじく大御所として政治を続けます。
寛永9年(1632年)に死去。享年54歳だったといいます。
基本ステータスについて
統率:38
武勇:35
知略:70
政務:85
主義:中道
関ヶ原の戦いでのぐだぐだがありましたしね。
過去作でも統率は10~20台と低い評価になっています。
戦法・特性について
(戦法)
治療:自部隊の兵力回復。
(特性)
堅固:自部隊の防御上昇。
作事:城下施設の建物効率上昇。
(家宰)
重農主義:農村の石高上昇、市の商業減少。
(奉公)
徳川伝:旗本先手役が発令可能、すでに発令可能なら維持費削減。
積極的に戦いにいくタイプではありませんね。
総評
徳川秀忠は文官タイプの武将です。
知略70・政務85ありますが、統率・武勇は30台です。
「作事」があるので内政でつかっていくとよいでしょう。
次回は徳川家光です。 【追記】次回できました。以下のリンクから。