『信長の野望・新生』武将能力:島津義久の評価は?【武将評価シリーズ・その35】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第35回目は、島津四兄弟の長男にして島津家16代目当主の島津義久(しまづよしひさ)です。
ネットだとそんな言われ方もされていますね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の仙谷権兵衛(秀久)は以下のリンクから。
人物について
島津義久は天文2年(1533年)、島津家15代当主・島津貴久の嫡男として生まれました。幼名は虎寿丸。
祖父の島津忠良は義久を「三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わり」と評しています。
初陣は天文23年(1554年)。島津氏と蒲生氏らのあいだで争いが起こり、このときの岩剣城攻めに参加しました。
永禄9年(1566年)には家督を継ぎ、島津家の16代目当主となります。元亀元年(1570年)には薩摩を統一しました。
さらに天正二年(1574年)には大隅を、天正4年(1576年)には日向を統一し、念願の三州統一を果たします。
やがて豊後国の大友宗麟と対立することとなります。
義久は攻めてくる大友軍を誘い出し、伏兵を使って三方から攻撃する「釣り野伏せ」で撃退。勝利を治めます(耳川の戦い)。
次に立ち塞がるのは、肥前国の龍造寺隆信です。
義久は家久を総大将とし、竜造寺軍にあたらせました。家久も「沖田畷の戦い」の戦いによって、「釣り野伏」で竜造寺軍を迎え撃ち、龍造寺隆信を討ち取って大勝利を飾りました。
こうして九州統一間近になったところへ、豊臣秀吉の大軍が迫ってきます。
先鋒となった仙谷権兵衛(秀久)の6千の軍を退けはしたものの、そのあとに約二十万もの豊臣軍本体が押し寄せてきたために降伏。義久は薩摩一国を安堵されました。
しかしその後、島津は豊臣氏に従順でないとのうわさが立ちます。朝鮮出兵でも協力的でなかったことから、不服従の責任をとるために歳久の首を秀吉から要求されました。
こうして義久は、歳久に自害を命じます。
秀吉と義久のあいだのわだかまりは広がり、秀吉は義弘のほうを島津家当主としていました。
「関ヶ原の戦い」においては、義弘は西軍に参加し、本国に援軍を要請しましたが義久は動きませんでした。
「関ヶ原の戦い」後は、「義弘が勝手に参加したので、こちらはあずかり知らぬ」として、徳川家康と和平交渉をします。
家康は条件として、義久に上洛をするよう命じました。しかし、けっきょく家臣を向かわせて、自分は病気だのなんだのといろいろ理由をつけて動きませんでした。
最終的には義弘の子・島津忠恒が代わりに上洛し、和平が成りました。家康のほうが折れたという形ですね。
最期は慶長16年(1611年)、国分城にて病死しました。享年79でした。
基本ステータスについて
統率:82
武勇:71
知略:86
政務:84
主義:革新
バランスが取れているともいえますね。島津四兄弟の中では最高の政務を誇っています。
「革新」「天道」などでは政務は90以上あったのですが、本作では数字が落ちましたね。このあたりの評価で落ち着いてきたのでしょう。
戦法・特性について
(戦法)
罵声:敵部隊の防御低下。
(特性)
鉄壁:所属城の耐久ダメージ減少。
反攻:城が強攻されたときに攻城部隊へのダメージ増加。
作事:城下施設の建設効率上昇。
特性はすべて城絡みですね。守りに強い武将といえます。
総評
島津義久は戦闘・内政ともにバランスのとれた武将です。
統率・知略・政務は80以上ありますし、武勇も71ありますので、全方面で活躍できるでしょう。
優秀な弟たちもいますし、九州統一に向けて、島津家を率いて戦いましょう。
次回は龍造寺隆信です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。