『三國志14』武将能力:陸抗の評価はいかに?【三国志武将評価シリーズ・その149】|三国志14
『三國志14』三国志武将評価シリーズの第149回目は、陸遜の子の陸抗(りくこう)についてお届けします。前回の歩隲は以下のリンクから。
人物について
陸抗、字は幼節。陸遜の次男で、母は孫策の娘の孫氏です。そのため、血統的には孫策の外孫ということにもなります。
陸遜が亡くなったとき、陸抗は20歳でした。建武校尉となり、父の配下であった兵士5千人を引き継ぐことになります。
陸抗は父の棺を故郷まで運んだのち、都へ行って孫権の配慮に対する礼を述べました。
しかし孫権の後継者問題で、孫権と陸遜の仲が悪化し、陸遜に対する「二十条の疑惑」が楊竺によって上奏されていました。
陸抗はこの疑惑に対して、一つひとつ弁明をしていったことで、孫権とのわだかまりが解消されたといいます。
赤烏9年(246年)、陸抗は諸葛瑾の子・諸葛恪と任地を交換して、柴桑に駐屯しました。
引っ越しをするときに、陸抗はもとの駐屯地の外壁を修繕したり、住居の壁や屋根を治したり、果樹園にも手をつけないよう厳命しました。
諸葛恪が陸抗の駐屯地にやってくると、すべてが整っていてきれいな状態でした。
一方、陸抗が移った柴桑の駐屯地は、壊れたままの場所も多かったため、これを知った諸葛恪は大いに恥じ入ったといいます。
太元元年(251年)、陸抗は病気になり、療養のために都へ移りました。
治って任地にもどろうとしたとき、孫権は涙ながらに別れをいい、
「おまえの父のことは申しわけなく思っている。なんども送った詰問の手紙は、すべて焼いて他人に見せないでほしい」
といいました。
時が経ち、呉の最後の天子(皇帝)・孫晧の代になると、陸抗は軍の総指揮官の地位にまでのぼりつめました。
鳳凰元年(272年)、西陵の督であった歩隲の子・歩闡(ほせん)は呉に反旗を翻し、晋に寝返ってしまいます。
陸抗は兵を率い、西陵の城を包囲しました。
しかし晋からの援軍を恐れた諸将たちは、「早く攻撃を仕掛けたほうがいい」と言い出します。
すると陸抗はいいました。
「この城の防備は、以前わたしが配備したものだ。そう簡単に落とせるものではない。それに晋の援軍はかならず来る。挟み撃ちになるが、それに対して備えなければ、どうやって防ぐつもりなのか」
当然、理解が得られるわけもなく、その後も城への攻撃願いが出され続けました。
陸抗は諸将たちを納得させるため、一度だけ城への攻撃を許可しました。
結果、なんの戦果も挙げられなかったため、諸将たちはやっと納得して包囲陣形をしっかりと整えました。
さて、晋からやってきた援軍を指揮するのは、陸抗のライバルでもある名将・羊祜(ようこ)です。
羊祜が江陵へと向かったため、諸将たちは、
「このまま西陵にとどまらず、江陵の守りに向かうべきだ」
と言い始めました。
しかし羊祜は、
「江陵の守りは十分だ。仮に落とされたとしても、守りきれはしないから、取り返すのは容易だ。
一方、西陵の兵力を減らせば、南方の異民族が反乱を起こすかもしれない。そうなったら、対処しなければならないことが増えてしまう。
たとえ江陵を捨てても、西陵に兵を集中すべきだろう」
と答えました。
陸抗は江陵の督の張咸に命じ、水路を堰き止めさせました。こうして水をためて平野一帯を水没させ、敵の侵入を防ぐと同時に、江陵からの逃亡兵も防ぐという策です。
しかし羊祜は、水が溜まっている状況を逆に利用し、船での兵糧輸送をおこないました。その一方で、
「歩兵を通すため、敵の堤防を切れ」
と嘘の命令を広めたのです。
陸抗はこれを知ると、急いで堰を切るよう命じました。諸将たちはわけがわからず、堤防を切るべきではないと反対しましたが、陸抗は聞き入れません。
堤防が壊されたことを知った羊祜は、船での兵糧輸送を途中であきらめ、陸路での輸送に切り替えました。しかしこのことによって、輸送に大きな労力を割くことになったのです。
羊祜との戦いは何カ月にもおよび、けっきょく羊祜側は決め手がないまま退却してしまいました。
こののち、陸抗は西陵の城を落とします。歩闡とその一族や、主だった将たちは処刑しましたが、それ以外の者たちは許しました。
そして西陵の城壁などを修繕してから、兵を退きました。
この大手柄に対して、陸抗はいっさい誇ることはなく、以前と変わらず謙虚な態度で人に接していました。このことから、将兵は陸抗に心服したといいます。
羊祜は敗戦のあとも、機会があるごとに呉との国境で徳のあるおこないをし、呉の人たちの心を引き付けようとしました。
これに対して陸抗も、国境を守る者たちに、
「相手が徳をおこない、こちらが非道をおこなえば、戦う前から負けてしまうようなものだ。小さな利益を追わず、それぞれの持ち場を正しく守れ」
と命じました。
これによって両国のあいだは、食糧が置かれたままになっても敵国が奪っていくことはなく、牛や馬が敵国に逃げても、連絡をすればちゃんと取り戻すことができました。
また手負いの獲物が敵国へ逃げたばあいも、それらはすべて送り返されたといいます。
陸抗が病気になったとき、「なにかよい薬はないか」と羊祜に使者を送って伝えました。
すると羊祜は薬を調合し、使者に渡して持ち帰らせました。陸抗はなんの疑いもなく、その薬を飲み干しましたといいます。
しかし陸抗と羊祜の友好関係は、両国の臣のなかで眉をひそめる者たちも少なくありませんでした。
陸抗は孫晧に呼び出され、いったいどういうことなのかと詰問されます。
陸抗は、
「大国に真義を守る者がいなくてよいものでしょうか。もしわたくしが晋に対抗しなければ、それは相手の徳を助長させるだけです」
と答えました。
当時、国境での晋と呉の力は拮抗しており、たがいの領土を侵すことは、簡単にはできませんでした。この状況では、相手を傷つけることで有利になろうとするよりも、民の心を引き付けるほうが有効な手段だったともいえます。
じっさい羊祜は、徳によって敵も味方も差別せずにあつかっていたことから、多くの民がそのもとへ集まったといいます。また外国も晋と手を結びたがっていました。
一方の呉ですが、晋に比べて国は小さく、天子の孫晧は暴虐を尽くしているという状況です。放置すれば、民や将兵はどんどん晋へと流れていくでしょう。
鳳皇2年(273年)、陸抗は病気が重くなり、やがて死去してしまいます。
それから7年後の天紀4年(280年)、呉は晋に滅ぼされてしまいました。
今回はそんな陸抗の能力を見ていきましょう。
基本ステータスについて
統率:91
武力:63
知力:87
政治:85
魅力:87
主義:王道
政策:施設開発(Lv5)(Lvで各種施設開放)
父親:陸遜
母親:孫氏
親愛武将:吾彦、羊祜
本作の統率ランキングでは9位に入っていますね。知力・政治・魅力も、補正が入れば90台に届くでしょう。
ちなみにシリーズ初登場の『三國志3』での評価は高くなく、武力・知力は77、政治は69といったステータスでした。そこから評価が上がっていった形ですね。
本作では羊祜を味方にして、夢のタッグも可能ですね。
個性について
督将:自ユニットを除く特定範囲内の味方ユニットの破城が上昇(艦船、兵器以外)。
水戦:大河で自ユニットの全能力が上昇。
一心:自ユニットが攻撃を受けたさいに士気が低下しにくくなる。
封殺:特定範囲内の敵ユニットが「足止」になったさい、期間を延長。
改修:所属都市に所在していると、耐久の回復量が増加。
親譲りの「水戦」もありますね。三国志後期武将で、これだけスキルが揃っているのは優秀です。
陣形と戦法
魚鱗、方円、鶴翼、井闌
「井闌」もありますし、野戦・攻城戦とこなしていけるでしょう。
連弩:ダメージ+「足止」付与。対拠点可。
激励:味方の士気+攻軍アップ。対拠点可。
鯨波:味方の破城アップ+敵の攻軍ダウン。対拠点可。
井闌:ダメージ。対拠点可。
駆逐:ダメージ。
矢嵐:ダメージ。
そもそも登場が遅いのもネックですね。DLCかアップデートで、陸抗が活躍できる後期シナリオを追加してほしいところです。
総評
陸抗は後期三国志における呉のエースです。統率は91あり、知力・政治・魅力も80台後半という好ステータスを誇っています。
戦闘ユニットとしては「水戦」の個性や水軍戦法もあり、「井闌」も持っているため、野戦・水上戦・攻城戦と幅広く対応することができます。
人材不足の後期の呉では、中心となる武将といえます。
次回は羊祜を予定しています。【追記】次回出来ました。