『三國志14』武将能力:諸葛恪の評価はいかに?【三国志武将評価シリーズ・その93】|三国志14
『三國志14』三国志武将評価シリーズの第93回目は、諸葛瑾の子である呉の大将軍・諸葛恪(しょかつかく)についてお届けします。前回の諸葛瑾は以下のリンクから。
人物について
諸葛恪、字は元遜(げんそん)。前回登場した諸葛瑾の長男です。弟には諸葛喬・諸葛融がいます。
身の丈は七尺六寸(約183メートル)。ひげや眉は薄く、鉤鼻でひたいは広く、口が大きく声が高かったそうです。
若いころから才能にあふれ、とくに弁舌に長けていました。対等に議論を戦わせることのできる者はいなかったといいます。
諸葛瑾は面長でロバに似ていました。孫権は群臣たちをいる席で一匹のロバを引いてこさせ、そのひたいに札を貼って「諸葛子瑜(子瑜は諸葛瑾の字)」と書かせました。
そこへ諸葛恪が出てきて、孫権の前でひざまずき、
「筆で二文字書き加えることを許してください」
と頼みます。
孫権はそれを許すと、諸葛恪は「諸葛子瑜」の文字に続けて「之驢(のロバ)」と書き加えました。「諸葛子瑜之驢(諸葛瑾のロバ)」ということですね。
一同はそれを見て笑い、ロバは諸葛恪に下賜されたのです。
またあるとき、孫権は諸葛恪にたずねました。
「おまえの父とおじ(諸葛亮)はどちらが優れておるか」
すると諸葛恪は答えました。
「わたくしの父は仕えるべきところを知っておりますが、おじはそれがわかりません。ゆえに父のほうが優れています」
孫権はこれを聞いて大笑いしました。
このほかにも諸葛恪の問答は多くあります。
孫権は諸葛恪をたいそう気に入り、軍の兵糧を統括する「節度」の役目をあたえました。しかし文書の処理が煩雑で、諸葛恪の望むところではありませんでした。
諸葛亮は諸葛恪が兵糧管理を担当するのを知ると、陸遜に、
「我が兄は年をとり、その子はいい加減な性格です。兵糧管理は軍の要。役目を変えるべきでしょう」
と手紙を送りました。
陸遜も諸葛恪の性格を不安に思っていたので、すぐに孫権に上奏して役目を変えさせました。
諸葛瑾もつねに息子の性格を心配し、「恪はわが家を盛んにもするが、一族を根絶やしにもするだろう」といっていました。身内の者にとっては問題児に見えたのでしょう。
しかし親の心配とは裏腹に、諸葛恪は山越平定や魏と戦いで功績をあげます。
陸遜が亡くなったのちには、大将軍にまで昇進します。そして陸遜に代わって荊州の軍事全般をあずかりました。
孫権が病床につくと、後事を諸葛恪や孫弘らに託しました。というのも、皇太子の孫亮がまだ幼かったのです。
孫権が亡くなったのち、諸葛恪と仲の悪かった孫弘は粛清されるのを恐れ、孫権の死を隠しました。そして勅書を捏造して諸葛恪を排除しようとしたのです。
しかしこの件は漏れてしまい、逆に孫弘は諸葛恪に呼び出されて殺されてしまいます。
こうして邪魔者がいなくなった諸葛恪は、孫亮を補佐し、呉の実権を握ることになりました。
ところが諸葛恪は未納の税をすべて帳消しにし、関税も取りやめ、すべてにおいて恩沢を施しました。これによって、呉の人びとから大きな支持を得たのです。
諸葛恪が外出するたびに、民は首を伸ばしてその姿を見たいと願ったといいます。
また諸葛恪は、韋昭に「呉書」の編纂を命じました。これがのちに陳寿「三国志」の呉書のもととなります。韋昭については、彼が主人公の小説「三国志博奕伝」(文春文庫)が詳しいでしょう。
魏の諸葛誕らが攻め込んできたとき、諸葛恪はこれを討ち破って大きな戦果をあげました。
国内の軍事は諸葛恪に任されたのですが、ここで諸葛恪は魏への侵攻を主張します。
呉の朝臣たちは反対しましたが、諸葛恪は聞き入れません。強く反対する者がいれば、会議からつまみ出されるという始末です。
諸葛恪は人びとの反対を押し切り、州や郡に大動員をかけ、二十万の大軍で魏へと攻め込みました。このことから、呉の人心が離れていきます。
諸葛恪は合肥新城を包囲しました。
魏の司馬師は、張特・文欽・毌丘倹に城を守備するよう命じます。
しかし呉の攻撃は激しく、城壁もボロボロになりました。
張特は勝ち目がないことを知り、諸葛恪に、
「魏の法では、百日間城を守れば、降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもありません。あと数日で百日になるので、それまでお待ちください」
と提案します。
諸葛恪はこれを聞き入れ、攻撃を控えました。
しかしそのあいだに張特は城壁の修復をすませ、徹底抗戦の構えを見せます。
諸葛恪は怒って攻撃を続けました。しかし陣営では暑さのために多くの兵士たちが生水を飲み、下痢などの病気を起こしていました。
これらの報告は諸葛恪のもとに届きましたが、「嘘偽りの報告」として、報告した役人を斬ろうとしました。以降、誰も実情を報告しなくなりました。
もちろん諸葛恪自身も内心、今回の遠征が失敗であったことをわかっていました。しかし、いまさら引き上げるわけにもいかず、どんどん不機嫌になっていきました。
将軍の朱異が今回の出兵を批判すると、諸葛恪は怒って兵を取り上げてしまいました。
また都尉の蔡林は作戦を建議しましたが、すべて無視されたため、諸葛恪を見限って魏へと亡命してしまいました。
けっきょく諸葛恪は軍を引き上げました。しかし兵士たちは病気にかかっており、道中で命を失う者も少なくありません。皆、怨嗟の声をあげていましたが、諸葛恪は気にする様子もありませんでした。
長江までたどり着くと、本国へもどらずそこでひと月とどまり、屯田をおこなう計画を立てました。
やがて本国から帰国するよう勅書が何度も送られてきたため、やっとのことで軍を返しました。
しかし帰還したのち、中書令の孫嘿(そんもく)を呼び出し、「なぜ勅書をでっちあげて呼び返したのか!」と叱りつけました。
それから自分の権力を誇示するため、出陣中に任命された地方官などをすべて辞めさせ、決めなおさせました。
さらに多くの者を断罪したり叱責したりし、ふたたび出陣の準備をはじめたのです。
呉の皇族の孫峻は、民の多くが諸葛恪に不満を抱いているのに乗じ、天子(皇帝)の孫亮とともに暗殺をくわだてました。
孫亮が諸葛恪を酒宴に招き、その席で孫峻が「勅命によって逮捕する」と諸葛恪を斬り殺しました。その死体はむしろに巻かれ、丘陵地帯に投げ捨てられました。享年51歳でした。
諸葛恪の一族も皆殺しにあいました。諸葛瑾が心配していたことが現実になったのです。
ちなみに諸葛恪亡きあと、孫峻が朝廷の権力を掌握して専横をおこないます。
しかし最期は心臓が悪くなり、諸葛恪に殴られる夢を見て、恐れのあまり病にかかって亡くなりました。
今回はそんな諸葛恪の能力を見ていきましょう。
基本ステータスについて
統率:72
武力:47
知力:90
政治:80
魅力:64
主義:我道
政策:施設開発(Lv5)(Lvで施設開放(2:石壁、4:軍楽台、7:砦、10:投石台))
父親:諸葛瑾
親愛武将:顧譚、聶友(じょうゆう)、孫登、張休、陳表
嫌悪武将:朱績、孫峻、滕胤、羊衜(ようどう)
本作の知力ランキングにもランクインしていますしね。
諸葛恪が「三國志」シリーズに登場するのは『三國志2』からで、そのときは知力95ありました。そこから落ちていった形ですね。
後期三国志の人物ですしね。全員呉の臣です。
顧譚・張休・陳表の3人は、諸葛恪とともに太子・孫登の四友といわれていました。
聶友は諸葛恪の友人で、その専横を諫めましたが聞き入れられませんでした。
朱績は朱然の子ですね。諸葛恪の一族とは関係が悪かったです。
滕胤は諸葛恪の魏への出兵を諫めています。羊衜は諸葛恪を批判したことで冷遇されてしまいました。
個性について
妙算:特定範囲内の敵ユニットの防御が低下(艦船、兵器以外)。
使役:府の上にいると、自ユニットの全能力が上昇。
扇動:特定範囲内の敵ユニットが「混乱」になったさい、その期間を延長。
智嚢:提案に登場しやすい。
高慢:一定兵数以下で自ユニットの全能力が低下。
兵数低下時に、さらに弱くなってしまうというバット個性です。壊滅には気をつけたほうがいいでしょう。
敵の防御を落とす「妙算」があるので、仲間のサポートをしていくのがいいかと思います。
陣形と戦法
魚鱗、雁行、鶴翼、衝車
選択肢があるのはいいことですね。都市攻めのときは「衝車」で行くのもいいでしょう。
機知奇策:敵の全能力ダウン+ダメージ。
連弩:ダメージ+「足止」付与。対拠点可。
業火:発火。対拠点可。
混乱:「混乱」付与。対拠点可。
罵声:敵の士気+攻軍ダウン。対拠点可。
矢嵐:ダメージ。
「機知奇策」はダメージ技ですが、敵の全能力もダウンさせます。これを食らわせたあと、味方とともに一気にたたみこみましょう。
「混乱」は、その期間を延長させる「扇動」で相乗効果が狙えますね。
総評
諸葛恪は軍師タイプの武将です。
統率・武力は高くありませんが、敵の防御を落とす「妙算」や、「混乱」を延長させる「扇動」で、味方をサポートしていくことができます。
また敵の全能力を落とすダメージ技「機知奇策」もあるので、味方とうまく連携していきましょう。「高慢」があるので兵力低下には注意が必要です。
次回は諸葛亮の子、諸葛瞻(しょかつせん)を予定しています。
↓次回出来ました。