『三國志14』武将能力:朱然の評価はいかに?【三国志武将評価シリーズ・その110】|三国志14

2020年6月4日三国志武将能力評価三国志, 三國志, 三國志14武将評価シリーズ

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『三國志14』三国志武将評価シリーズの第110回目は、江陵を守り抜いた呉の最後の名臣・朱然(しゅぜん)についてお届けします。前回の劉虞は以下のリンクから。

 

人物について

ダンディな口ヒゲのおじさまニャ。

朱然、字は義封(ぎほう)。揚州・丹陽郡の人です。

朱治の姉の子で、もともとは施然といいました。

朱治の姉の旦那が施姓なのニャ。

朱治は子供がいなかったため、施然が13歳になったときに、自分の跡継ぎにしたと考えました。

そこで上司の孫策に相談したところ、孫策は丹陽郡の役所に命じて羊と酒を用意させ、施然を丁重に迎え入れました。

また施然が呉へやってきたときには、孫策は養子縁組を厚く祝ったのです。

孫策は、13歳の子どもに対してやたらと盛大に祝ったのニャ。

どちらかといえば、朱治に気をつかったのでしょう。

こうして施然は朱治の子となり、朱の姓を授かって「朱然」となりました。

朱然は孫権とともに学問を学び、二人の間には恩義の関係が結ばれていました。

机を並べた少年どうしの友情ニャ。

孫策が亡くなり、孫権があとを継ぐことになると、朱然は会稽郡・余姚県の県令となりました。このとき朱然は19歳です。

のちに山陰県の県令に昇進し、折衝校尉に任じられ、5つの県を取り締まることになりました。

若いのに大任をまかされたのニャ。

いっしょに勉強していただけあって、孫権は朱然の才能を高く評価していました。丹陽郡を分けて臨川郡を作り、その太守に朱然を任じたのです。さらには二千の兵をもあたえました。

当時、山越が反乱を起こしていたので、朱然はその討伐をおこない、ひと月あまりで平定してしまいました。

赤壁の戦いにおいては、朱然は大塢と三関屯の防衛をおこない、偏将軍に任じられます。そののち、周泰の配下に組み込まれたことで不満を持ったのは、周泰の回でも述べたとおりです。

朱然としては、仲のいい孫権が周泰のほうを評価していたのが気に食わなかったのかもしれないニャ。

建安24年(219年)の関羽討伐戦においては、呂蒙の別動隊として潘璋とともに臨沮に進軍し、関羽を捕らえるという大功を果たしました。これによって昭武将軍に昇進し、西安郷侯に封じられます。

そののち、呂蒙が危篤に陥りました。孫権が後継者を聞いたところ、呂蒙は、

「朱然は決断力・実行力ともにすぐれております。彼に任せるべきでしょう」

といいました。

呂蒙の死後、朱然は江陵の守りを任されることになります。

呂蒙にも信頼された将ニャ。

劉備が関羽の復讐のために攻め込んできたときには、朱然は陸遜にしたがって5000の兵を率いてこれに当たりました。

朱然は別動隊として劉備の先鋒を討ち破り、さらにはその退路を遮断。これによって劉備は敗走しました。

関羽に続いて、劉備も討ち破ったニャ。

朱然の名をもっとも高めたのは、やはり江陵の攻防戦ですね。

魏の曹真・夏侯尚・張郃らが攻め込んできて、江陵の城を包囲したときに、朱然は外との連絡が途絶えてしまいました。

しかも城内の兵士たちは浮腫の病にかかり、戦える者はわずか5000人だけです。

しかしこの状況でも朱然は恐れずに兵卒らをはげまし、さらには隙を見て敵の2つの陣営を攻め破りました。

この状況でも攻め勝つのニャ。

江陵県の県令・姚泰(ようたい)が城の北門を守っていたのですが、自軍の兵も兵糧も少ないのを見て、敵と内通しようとしました。しかし実行される前に発覚し、朱然は姚泰を処刑しました。

城の包囲は6カ月にもおよびましたが、魏軍はどうしても陥とすことができず、退却してしまいました。

このことによって朱然の名は他国にまで鳴り響きます。またこの功績によって当陽侯に封じられました。

兵力もほとんどない状態で、半年も城を守れたのはすごいニャ。

その後も孫権の出陣にしたがい、さまざまな功績を打ち立てています。

朱然は身長七尺(約170センチ)に満たない将でしたが、さっぱりとした性格で、質素な生活をしていました。

慎み深く職務をおこない、つねに陣頭に立ち、どんな場合でも落ち着てい対処できる点については、まねできる者はいませんでした。

平穏なときにあっても、朝夕ごとに太鼓を鳴らし、兵士たちに装備をつけさせて整列させました。このようなことから、なにをするにしても功績を挙げられたのです。

普段からの心構えが違うニャ。

諸葛瑾の息子の諸葛融や、歩隲の息子の歩協らが父親のあとを継ぎ始めると、孫権は朱然に彼らを束ねさせました。諸葛一族については以下の記事を参照してください。

陸遜が亡くなると、呉の功臣で生き残っているのは朱然だけとなりました。孫権の朱然に対する礼遇は、およぶ者がいなかったといいます。

呉の最後の名臣ニャ。

やがて朱然は病床につき、そのまま2年が経過しました。

孫権は朱然を心配し、昼は食事を減らし、夜は眠れずといった様子でした。宮殿からは薬や食事を届ける者が、ひっきりになしに遣わされたといいます。

さらには、病状を報告する使者が来るたびに、孫権はみずから会って様子をたずねました。使者を迎え入れるときには酒や食べ物をあたえ、送り出すときには反物を授けたといいます。

机を並べていた仲ニャ。心配もするニャ。

赤烏12年(249年)、朱然は病から回復せず、亡くなりました。68歳だったといいます。

孫権は喪服を付け、心のこもった哭礼をおこないました。朱然のあとは、子の朱績が継ぐことになりました。

これで呉の名臣が全員亡くなってしまったのニャ。新しい時代の幕開けニャ。

今回はそんな朱然の能力を見ていきましょう。

 

基本ステータスについて

統率:79
武力:69
知力:71
政治:60
魅力:77
主義:王道
政策:火計研究(Lv3)(火計の効果が上昇、Lvで火罠解放(5:火船、10:猛火罠))
父親:朱治
親愛武将:孫権、陸遜

活躍のわりには、ステータスは思ったほど高くないニャ。

たしかに活躍のわりには高くないですね。統率はもっと高くてもいい気がします。

ちなみに「三國志」シリーズでも武力・統率は60~80台を行き来していて、あまり安定していませんね。

総合能力的にはバランスが取れていて、悪くはないかと思います。

 

個性について

胆力:一定兵数以下で、自ユニットの全能力が上昇。

火攻:自ユニット、太守としての所在する都市への火の被害が減少。「火計」の成功確率が上昇。

慎重:敵勢力の罠から受ける被害が減少。

堅牢:所属都市に所在していると、都市が攻められたさい、反撃ダメージが上昇。

寡欲:自身の俸禄が減少。

堅牢」はあると思ったニャ。

胆力」や「慎重」、火の被害を減少させる「火攻」もあり、守備系の個性がそろっています。江陵攻防戦が評価されていますね。

 

陣形と戦法

陣形

雁行、方円、井闌

これも守備系の陣形ニャ。

文官っぽい陣形持ちですね。統率・武力は悪くないので、野戦もこなしていけるでしょう。

戦法

火矢:発火。対拠点可。

鉄壁:味方の防御力アップ。

足止:「足止」付与。

駆逐:ダメージ。

強襲:ダメージ+「混乱」付与。

これも守備系の戦法ニャ。

駆逐」「強襲」は水上戦用戦法なので、水上でも戦っていけます。「火矢」もあるので、都市攻めに使っていくといいでしょう。

 

総評

朱然はバランスのとれたステータスを持つ武将です。

突出した能力はありませんが、戦闘・内政と全般的に活躍していけるでしょう。

また「胆力」「慎重」「火攻」「堅牢」といった守備に向いた個性や、「鉄壁」「足止」といった戦法もあり、守りに優れた武将といえます。

呉の最前線を守れる武将ニャ。

次回は朱然の養父、朱治を予定しています。【追記】次回とアップデート1.0.7記事出来ました。