『信長の野望・新生』武将能力:筒井順慶の評価は?【武将評価シリーズ・その112】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第112回目は、「元の黙阿弥」や「洞ケ峠を決め込む」などの語源で知られる筒井順慶(つついじゅんけい)です。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回のガラシャは以下のリンクから。
人物について
筒井順慶は天文18年(1549年)、筒井順昭の子として生まれました。筒井家は大和興福寺の衆徒として知られています。
順慶が生まれた翌年、父・順昭が夭折します。わずか27歳だったといいます。
そのため、順慶はわずか2歳で家督を継ぐこととなります。じっさいの政務は、叔父の筒井順政がとりおこなっていました。これを補佐したのが家、臣の島左近と松倉右近(重信)です。
また父・順昭は死の間際、家臣たちに自分の死を一年間伏せておくようにいいつけていました。そして自分に似た盲目の法師・黙阿弥(木阿弥)を影武者として立てました。
父・順昭の死から一年経ったのち、役目を果たした黙阿弥は恩賞を受けて「元の黙阿弥」へと戻りました。これが「元の黙阿弥」の語源とされています。
順慶が16歳のころに叔父・順政が亡くなると、これを機にと松永久秀が筒井城へ侵攻をはじめます。順慶は布施城へと逃げ込みました。以降、松永久秀との戦いが続きます。
順慶は、松永久秀と仲たがいした三好三人衆と協力し、筒井城を奪還しました。
しかし松永久秀は織田信長の後ろ盾を得ていたことから反撃を開始し、またもや筒井城を奪います。そこから取った取られたの戦いが繰り広げられました。
元亀2年(1571年)、両者は信長の仲介で和解。以降は信長に従います。天正3年(1575年)には信長の娘か妹を妻に迎えていますね。
翌年には明智光秀の与力となり、信長から大和国支配を任されるほどになりました。
「本能寺の変」で信長が亡くなると、順慶は光秀から協力を呼びかけられます。順慶は兵を出して協力するそぶりを見せたものの、積極的に動くことはありませんでした。
その一方で、秀吉とも通じていましたが、そちらのほうもあいまいな感じでした。
光秀は順慶が加勢するものと考え、洞ヶ峠に布陣しましたが、順慶は静観しているだけです。
やがて光秀は秀吉に敗れ、順慶は秀吉からその日和見を叱責されました。
ここから日和見的な態度のことを「洞ケ峠を決め込む」というようになりました。
その後は秀吉の家臣となります。病をおして「小牧・長久手の戦い」に参戦。帰還後、ほどなく亡くなりました。享年36歳だったといいます。
基本ステータスについて
統率:60
武勇:47
知略:76
政務:76
主義:中道
日和見のほうの評価が強くなっているのか、あまり能力は高くないですね。
過去作でも統率・武力は低く設定されています。
戦法・特性について
(戦法)
治療:自部隊の兵力回復。
(特性)
人脈:遠国登用に関する具申が可能。
能弁:外交取次時の信用上昇量増加。
これも日和見主義を強調するためのものとは思います。
総評
筒井順慶は外交に長けた武将です。どちらかといえば文官向きですね。
知略・政務は76あり、「人脈」「能弁」といった外交スキルも持っています。
内政・外交方面で活躍させていくのが良いでしょう。
次回は南光坊天海です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。