『信長の野望・新生』武将能力:大谷吉継の評価は?【武将評価シリーズ・その56】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第56回目は、病におかされながらも戦場で軍の指揮をとった大谷吉継(おおたによしつぐ)です。
覆面で病気を隠していたというのは明治以降の描写で、江戸以前にはなかったようですね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。
人物について
大谷吉継は永禄2年(1559年)、大谷吉房の子として生まれたとされています。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、中国攻めにも従軍しました。
「本能寺の変」で織田信長が亡くなると、秀吉に従って柴田勝家とのいくさ「賤ヶ岳の戦い」にも参加しました。
天正14年(1586年)、秀吉が関白の位に就くと、吉継は従五位下刑部少輔に任じられます。ここから「大谷刑部」とも呼ばれるようになります。
秀吉の九州平定においては、石田三成のもとで功績を打ち立てました。
また朝鮮出兵では船や物資の手配、明との和平交渉など、裏方で支えていました。
それと、真田幸村が人質として大阪城に送られたときに、大谷吉継は娘の竹林院を幸村の妻としています。
吉継の名が広く知られるようになったのは、やはり「関が原の戦い」でしょう。
秀吉亡きあと、三成と徳川家康の対立は激化。
吉継は二人の仲をとりもとうとしますが、三成から挙兵をもちかけられました。
吉継は「無謀で勝機は無い」と何度も説得しましたが、最終的には三成の決心に同意して協力することになります。
いくさが始まると、吉継は病のため後方で指揮をとっていましたが、藤堂高虎の部隊を相手に善戦を繰り広げていました。
しかし小早川秀秋の裏切りによって戦況は家康側に傾き、吉継の部隊は壊滅。吉継は自害しました。享年42歳でした。
基本ステータスについて
統率:89
武勇:68
知略:90
政務:80
主義:中道
統率も89と90近くありますので、野戦・攻城と活躍できるでしょう。
過去作だと統率・智謀が70~80台でしたが、「革新」以降からは高ステータスになっていますね。
戦法・特性について
(戦法)
同討:敵部隊の兵力減少。
(特性)
用兵:敵部隊を挟撃中、自部隊の攻撃上昇。
策謀:特殊な調略具申が可能。
射手:合戦で積極的に高所から射撃。
ユニークスキルなどはありませんが、「用兵」「策謀」と軍師系の武将が持っているものは一通りありますね。
総評
大谷吉継は軍師タイプの武将です。
統率・知略は90前後あり、特性も「用兵」「策謀」と軍師系のものをもっています。
城攻めや野戦など、いくさには積極的に参加させて戦いましょう。
次回は蒲生氏郷です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。