『三國志14』武将能力:郭女王の評価はいかに?【三国志武将評価シリーズ・その125】|三国志14
『三國志14』三国志武将評価シリーズの第125回目は、曹丕の妻で魏の初代皇后であった郭女王(かくじょおう)についてお届けします。前回の甄氏は以下のリンクから。
人物について
郭女王は安平郡・広宗県の人です。先祖代々長史の家系でした。
父は郭永といい、3人の息子と2人の娘がいました。郭女王はそのうちの3番目で、娘としては2番目でした。
郭永は幼い郭女王を見て、
「この子は、我が娘の中の王だ」
といい、字(あざな)を「女王」としました。
しかし郭女王は早くに両親を失ってしまい、銅鞮(どうてい)侯家の召使いに身を落としてしまいました。
曹操が魏公になったとき、郭女王を見出して、東宮(太子の御殿)に入れました。
郭女王は知略にすぐれており、曹丕にさまざまな意見を出していました。曹丕が曹操の後継者になれたのも、郭女王の献策があったからだといいます。
じっさい、曹丕は郭女王を寵愛し、一方で甄氏への寵愛は薄れていきました。
曹丕が帝位についたのち、甄氏が誅殺されてしまいますが、郭女王が謀ったとの説もあります。
曹丕は郭女王を皇后として立てようと考えていました。しかし郭女王の身分が低いことから、家臣の反対にあいます。
また郭女王自身も、皇后になることを辞退していました。郭女王は慎み深い性格で、後宮の貴人たちが罪をおかしても、それをかばってやったりしていいました。このことから、後宮では人気があったといいます。
どちらの説も、じっさいのところはどうかはわかりませんけどね。
曹丕は反対意見を無視し、郭女王を皇后に立てました。
そののち、郭女王の親族たちはその権力を利用しようとしましたが、郭女王は、
「漢王朝の皇后の親族で、無事であった者が少ないのは、その驕りのせいです。慎重にするべきでしょう」
と戒めました。
甄氏が誅殺されたのち、子どものいない郭女王は甄氏の子である曹叡を引き取りました。
曹丕が亡くなり曹叡の代になると、郭女王は皇太后にたてまつられ、「永安宮」と呼ばれます。また郭女王の親族も爵位を引き上げられました。
そして青龍3年(235年)、郭女王は許昌で崩御します。
『漢晋春秋』では、曹叡が母のかたきとして、郭女王に死を賜ったとのことが書かれています。曹叡が郭女王を疑い、母が死んだときの状況をたずねると、
「先帝が誅殺されたのです。なぜわたくしにおたずねになるのですか。
それに陛下は、子でありながら父をかたきあつかいし、先の母のためにあとの母を、罪もないのに殺してもいいものでしょうか」
といいました。曹叡はこれを聞いて怒り、郭女王を殺したとのことです。
また『魏略』では、曹叡は郭女王の死後に真実を知り、母とおなじように粗末な埋葬にするよう命じています。
しかし郭女王の死後、その親族は爵位が上がり、昇進もしています。また『魏書』では葬儀のときに、曹叡はみずから供物をささげ、号泣をして悲しみを伝えたとのことも書かれています。
「母のかたき説」は物語的な面白さがあるぶん、事実とは違うかもしれませんね。
今回はそんな郭女王の能力について見ていきましょう。
基本ステータスについて
統率:22
武力:6
知力:70
政治:64
魅力:68
主義:覇道
政策:本草学(Lv2)(武将の傷病の回復率が上昇)
配偶者:曹丕
親愛武将:曹丕
嫌悪武将:甄氏、曹叡
開発陣は「悪女」ととらえているせいか、魅力は低く設定されていますね。ただ後宮の女官たちから頼られていたことや、曹丕の寵愛を受けていたことから、魅力は低くない気はします。『三國志11』のときは魅力85でした。
ちなみに「郭女王」という表記は本作からで、『三国志13』までは「郭氏」と表記されていました。文官タイプの武将ですね。
個性について
才媛:特定範囲内の敵ユニット(男)が異常状態になったさい、期間を延長。
甄氏の「傾国」とおなじで、戦場にいるだけで大きなサポートとなるでしょう。
陣形と戦法
鶴翼
敵がいない場所で、土地塗りつぶしのサポートをするのもいいでしょう。
混乱:「混乱」付与。
罵声:敵の士気+攻軍ダウン。対拠点可。
郭女王の出陣は、「才媛」のサポートを期待してのものですから、戦法は微妙な感じですね。
総評
郭女王は甄氏とおなじく、文官タイプの武将です。
魅力は低めですが、内政官の足りない地域で補助的に使うのもいいかと思います。
また敵の状態異常を引き延ばす「才媛」の個性があるので、余裕があれば戦場に連れていってもいいでしょう。
次回は袁紹の妻である劉氏を予定しています。【追記】次回出来ました。