『信長の野望・新生PK』武将能力:武田信虎の評価は?【武将評価シリーズ・その173】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第173回目は、武田信玄の父である武田信虎(たけだのぶとら)です。
強硬な手腕で甲斐を統一していましたしね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の今川氏真は以下のリンクから。
人物について
武田信虎は明応3年(1494年)(もしくは明応7年(1498))、武田信縄の子として生まれました。
当時の甲斐は守護不在で国人勢力が台頭し、領内は乱れていました。
信虎の祖父・武田信昌は信縄を跡取りにしたものの、そののちに次男・武田信恵に家督をゆずるといいだしたことから、信縄と信恵の対立が深まっていきます。
永正4年(1507年)に父・信縄が亡くなると、信虎は家督を継ぎます。信虎は信恵を下し、国人衆を力で従わせて甲斐統一を推し進めます。
一部の国人衆は今川氏を頼り、信虎に対抗。このことから武田氏と今川氏との関係が悪くなりました。とくに国人衆の大井家が抗争を続けていました。
やがて信虎は今川氏、そして大井家と関係改善をおこないます。大井家から妻を娶り、こうして生まれたのが武田信玄です。
天文5年(1536)、今川義元があとを継ぐと、信虎は娘を義元のもとへ嫁に出します。また北条氏とも関係改善を行って後方の憂いを断ち、信濃国への侵出準備をおこないました。
そして運命の天文10年(1541年)。娘婿の義元に会いに行ったとき、信玄は国境を封鎖して戻ってこれないようにしました。こうして甲斐は信玄に乗っ取られ、信虎は追放されてしまいます。
家臣団や国人衆との関係も悪く、たびかさなるいくさで税も重かったので、信玄ひとりの判断というより家臣団の総意といったところでしょう。
こうして信虎は義元のもとで隠居生活となり、出家して「無人斎道有」と名乗りました。弘治3年(1558)には拠点を京に移します。
元亀4年(1573)に信玄が亡くなると、その翌年に甲斐へ帰国。武田勝頼とも面会しました。そしてその年に信濃で死去。享年81歳だったといいます。
基本ステータスについて
統率:85
武勇:91
知略:72
政務:63
主義:中道
信玄の父ということもあり、政務以外は高スペックですね。
過去作でも統率・武勇90超えの時期は多く、能力の高い人物として評価されています。
戦法・特性について
(戦法)
用心:自部隊の防御上昇。
(特性)
攻勢:自部隊の攻撃上昇。
地の利:戦場で積極的に要所・重要拠点を襲撃。
(家宰)
騎兵強化:騎馬特性所持で騎馬攻撃強化、騎馬特性無しで騎馬攻撃弱化。
(奉公)
武田伝:甲州法度次第が発令可能、すでに発令可能なら維持費削減。
「攻勢」持ちなので、戦場では力を発揮するでしょう。
総評
武田信虎は戦闘に長けた武将です。
武勇は91あり、統率も85あります。
「攻勢」も持っているので、戦場で活躍させていくのがよいでしょう。
次回は武田逍遥軒です。【追記】次回できました。以下のリンクから。