『三國志14』武将能力:陳寿の評価は?【三国志武将評価シリーズ・その250】|三国志14
『三國志14』三国志武将評価シリーズの第250回目は、正史『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ)についてお届けします。前回の趙氏貞は以下のリンクから。
人物について
陳寿、字は承祚(しょうそ)。益州・巴西郡の人です。
陳寿の父は馬謖の参軍をつとめていたとされ、街亭の戦いに敗れたさい、諸葛亮によって髠刑(剃髪刑)にされてしまいました。
陳寿は蜀の学者である譙周(しょうしゅう)に師事し、蜀漢に仕えていました。
『三国志』には「譙周伝」が立てられており、陳寿が登場する場面があります。
陳寿が仕事を終え、休暇を要請して家に帰るさい、譙周に別れの挨拶をしに行きました。
譙周は、
「私はもう70歳を過ぎたので、次の年を迎えることもなく、長い旅路に出ることになるから、きみとはもう会えなくなるだろう」
といいました。そして翌年の冬に亡くなったとのことです。陳寿は「譙周は未来を見通す術によって、自分の死期を悟っていたのだ」としています。
陳寿は学識高く、黄皓の専横に対して意を曲げなかったことから左遷させられました。
また父の喪中に病を患い、女中に薬を作らせたことから批判を受けます。
儒教の価値観だと、両親の死を悲しまなければならない時期に、自分の体をいたわるのは「不孝」とされていました。このことから、蜀滅亡後もなかなか仕官ができなかったといいます。
そののち、羅憲の推挙で司馬炎に仕えることになります。陳寿は、蜀の地方史『益部耆旧伝』『益部耆旧雑記』や『諸葛亮集』を編纂し、高く評価されました。このことから『三国志』の編纂も陳寿が担当することとなったのです。
しかし荀彧の同族である荀勗(じゅんきょく)は、『三国志』「魏書」の内容に気に入らないところがあったことから、陳寿を長広太守に左遷してしまいます。
陳寿は母の病気を理由に任地に赴かず、これを知った杜預が陳寿をかばって司馬炎に上奏したことから、治書侍御史として中央にとどまることができました。
しかし母が亡くなると、その遺言通り洛陽に埋葬したのですが、儒教的には郷里に葬るのが普通なので、またもや批判を受けて罷免されてしまいます。
後に太子中庶子に任命されますが、これを受けずに元康7年(297年)に亡くなってしまいました。『華陽国志』では太子中庶子に就いたとされ、また亡くなった時期も永康元年(300年)となっています。
『三国志』が現代でも注目されているのは、やはり『三国演義』の功績が大きいですね。ちなみに『三国演義』のほうだと、黄忠の部下であった陳式が陳寿の父とされています。魏延とともに軍令を無視して敗戦してしまったことで、諸葛亮の怒りを買って処刑されてしまいました。
正史でも陳寿の父は諸葛亮に罰されていますので、このことから陳寿は、『三国志』で諸葛亮のことをあまり良く書いていないなどともいわれています。とくにそんなことはない気もしますけどね。
今回はそんな陳寿の能力を見ていきましょう。
基本ステータスについて
統率:12
武力:22
知力:60
政治:75
魅力:49
主義:礼教
政策:太学(Lv3)(配下武将の経験獲得量が上昇)
親愛武将:譙周、張華
嫌悪武将:黄皓、諸葛瞻
政治家としてはとくに大きな活躍はありませんし、むしろ左遷させられたりでまともに政治もできませんでしたしね。75もあれば十分なほうでしょう。
初登場の『三國志5』では知力88・政治79とハイスペックでしたが、実際の業績と照らし合わせていまの数値に落ち着いてきたのだと思います。
個性について
史官:主義経験値の獲得量が増加。
あくまで政治家ではなく史官であることを強調したのかもしれません。
陣形と戦法
方円
無し。
統率・武力が低いですし、戦場に出す意味もないでしょう。
総評
陳寿は文官タイプの武将です。政治は75ありますが、知力は60、魅力は49と、それほど高いステータスではありません。
また戦闘に関しては戦法も無く、陣形は「方円」のみ。統率・武力も10~20台なので、出陣させないほうがいいかもしれません。
唯一の個性は「史官」なので、内地のほうで平和に内政をさせておくのがいいとは思います。
次回は譙周です。