『信長の野望・新生』武将能力:立花宗茂の評価は?【武将評価シリーズ・その41】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第41回目は、「忠義・武勇は九州随一」と評された天下無双の武将・立花宗茂(たちばなむねしげ)です。
「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並び称されている人物ですね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の立花道雪は以下のリンクから。
人物について
立花宗茂は永禄10年(1567年)、大友氏の重臣・高橋紹運(当時は吉弘鎮理)の嫡男として生まれました。幼名は千熊丸。
大友家の家督を継いだ大友宗麟は、立花道雪・高橋紹運の補佐を受けて繁栄の時期を迎えます。
しかし天正6年(1578年)の「耳川の戦い」において、宗麟は島津義久に大敗します。以降、大友氏は衰退していきました。しかしその状況においても、道雪らは宗麟を支え続けました。
道雪は息子がいなかったことから娘の立花誾千代に家督を譲っていましたが、そののち、宗茂を婿養子として家督を継がせます。道雪は何度も紹運のもとを訪れ、養子にとりたいと願い出たそうです。
九州での島津氏の勢いは強くなると、大友氏は豊臣秀吉に助けを求めます。しかしすぐに援軍が来るはずもないので、それまで耐えしのがなくてはなりません。
やがて道雪が亡くなると、大友氏は窮地に立たされます。
実父・紹運はわずか700の兵で島津の大軍と戦い、大いに抵抗して壮絶な死を遂げます。
ついには宗茂の守る立花山城のみとなりました。
宗茂は籠城しつつも奇襲を仕掛け、島津軍を疲弊させます。
やがて豊臣軍が九州に上陸し、島津軍が撤退していきました。
宗茂はこれを逃さず、追撃をかけます。さらには島津軍にとられていた岩屋城・宝満城をも奪還しました。
これを知った秀吉は、宗茂を「その忠義、鎮西一。その剛勇、鎮西一」と褒めちぎったといいます。
宗茂は秀吉より筑後国柳川13万2,000石を授かり、異例の大名抜擢となりました。
朝鮮出兵でも活躍し、秀吉から「日本無双の勇将たるべし」と称されています。
「関ヶ原の戦い」においては、徳川家康の誘いを断って東軍につきます。
前哨戦である「大津城の戦い」においては、道雪の発案した「早込」により、通常の3倍の速さで敵を射撃し、あっという間に本丸を占領します。
しかし宗茂はこの戦いのために関が原へは到着できず、主戦場は石田三成の敗北で終わってしまいました。
関ヶ原後は居城・柳川城を明け渡して降伏し、領土をすべて没収されました。
加藤清正は宗茂を領内に住まわせ、家臣になるよう説得しましたが、これに応じませんでした。しかし清正は宗茂を追い出すことはなく、客人として丁重にあつかっていました。
徳川秀忠のころになると、陸奥国棚倉に1万石の領地を与えられ、大名として復帰します。さらに大阪の陣で秀忠を支えたことから、旧領の柳川に領地をあたえられました。
晩年においても徳川家光を支え、島原の乱鎮圧にも参陣します。
そして寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去しました。享年76歳でした。
基本ステータスについて
統率:87
武勇:98
知略:82
政務:62
主義:中道
本多忠勝も武勇98なので、そろえたというところですね。
ただ統率は87なので、武勇・統率ともに90以上の道雪のほうがバランスがとれていますね。
「革新」「天道」のころは宗茂も武勇・統率ともに90以上あったのですが、統率はだいぶ評価が落とされてしまっています。
戦法・特性について
(戦法)
激励:自部隊の攻撃上昇。
(特性)
乾坤:合戦で積極的に退き口を攻撃。
攻勢:自部隊の攻撃上昇。
反攻:城が強攻されたとき、敵部隊へのダメージ増加。
「激励」「攻勢」で攻撃力アップが図れますね。
島津軍を追い討ちしたエピソードから「反攻」もあるので、守りでも活躍できるでしょう。
総評
立花宗茂は本多忠勝と並ぶ猛将で、武勇は98あります。
統率は87と評価が低めになってしまっていますが、「激励」「攻勢」で攻撃バフがあるので補っていけるでしょう。
知略も82あるので、野戦・城攻めともに活躍させていきましょう。
次回は立花誾千代です。【追記】記事出来ました。以下のリンクから。