『信長の野望・新生』武将能力:本多正信の評価は?【武将評価シリーズ・その87】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第87回目は、徳川幕府の礎となった智将・本多正信(ほんだまさのぶ)です。
家臣団との仲は悪かったようですが、家康のためにあえて憎まれ役を買っていたともいわれますね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の宇喜多秀家は以下のリンクから。
人物について
本多正信は天文7年(1538年)、本多俊正の次男として生まれました。
家康に仕え、「桶狭間の戦い」では膝に傷を負い、足が不自由になってしまったといいます。
しかし永禄6年(1563年)に三河一向一揆が起こると、正信は一揆側の武将となって、家康と敵対します。
一揆が鎮圧されたのちは、三河を離れて諸国を放浪しました。
のちに家康のもとへ戻りましたが、その時期や理由については不明です。「姉川の戦い」のころに戻ったともいわれます。
「本能寺の変」で織田信長が亡くなったのち、正信は武田家の遺臣たちをまとめる役を担いました。
天正14年(1586年)には、朝廷より従五位下・佐渡守に任じられます。ここから「佐渡殿」と通称が生まれました。
家康の愛した「佐渡殿、鷹殿(鷹狩り)、お六殿(側室のお六の方)」の一つですね。
「関ヶ原の戦い」では徳川秀忠の軍に従ったことで、上田城の真田昌幸に足止めを食らい、主戦場に遅刻してしまいました。正信は上田城攻めに反対したといいます。
慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、正信は家康の側近として力を発揮します。2代将軍・徳川秀忠のころには年寄(老中)となりました。
元和2年(1616年)に死去。享年79歳だったといいます。
基本ステータスについて
統率:29
武勇:29
知略:92
政務:93
主義:中道
まさに文官という感じですね。統率・武勇の適当に決めた感もすごいです。
過去作でも知略・政務は80~90台でしたね。
戦法・特性について
(戦法)
治療:自部隊の兵力回復。
(特性)
作事:城下施設の建物効率上昇。
防災:同一城に属するすべての郡で災害回避上昇。
能吏:街道に関する具申が可能。
戦法も「治療」と、あくまでサポートですね。
総評
本多正信は優れた文官です。
統率・武勇は29と低いですが、知略・政務は90台あります。
また「作事」「防災」「能吏」とそろっていますので、内政で役立てていきましょう。
次回は後藤又兵衛です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。