『信長の野望・新生』武将能力:小早川秀秋の評価は?【武将評価シリーズ・その90】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第90回目は、「関ヶ原の戦い」で東軍勝利のきっかけをつくった小早川秀秋(こばやかわひであき)です。
本人はいろいろ苦労していましたけどね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の黒田長政は以下のリンクから。
人物について
小早川秀秋は天正10年(1582年)、豊臣秀吉の妻・ねね(高台院)の兄である木下家定の五男として生まれました。幼名は辰之助、通称は金吾中納言といいます。
天正13年(1585年)に羽柴秀吉の養子となり、子のいなかったねねに育てられます。木下(のちに羽柴)秀俊と名乗りました。
天正17年(1589年)には秀吉の弟・豊臣秀次に次ぐ豊臣家の後継者として、7歳で丹波亀山城10万石をあたえられます。
ちなみにこのころから、取り入ろうとする全国の大名の接待を受け、7歳にして酒を飲みまくっていたそうです。
ところが文禄2年(1593年)、秀吉に実子・豊臣秀頼が生まれたことから、後継者問題が勃発。
黒田官兵衛は、毛利元輝に後継者がいないことに目をつけ、その後継者につけようとしました。その話を毛利元就の三男・小早川隆景に持ち掛けます。
小早川隆景は、毛利家を豊臣家にのっとられるのを避けるため、自分の養子として引き受けることとなりました。こうして「小早川」姓となりました。ちなみにこのころすでに、12歳にしてアルコール中毒になっていたそうです。
朝鮮出兵ているころに小早川隆景が亡くなったのち、小早川家の家督を継ぎます。また名を「秀秋」に改めました。
理由は不明ですが、帰国後は筑前を没収され、越前北ノ庄15万石に減俸されます。しかし秀吉が亡くなったのち、減封処分は取り消されます。
やがて「関ヶ原の戦い」が始まると、秀秋は西軍として参加します。裏切るよう東軍からの誘いもありましたが、どっちつかずのまま決戦を迎えてしまいました。
やがて戦いがはじまり、いつまでも動かない秀秋の陣に対して、徳川家康は鉄砲を発射。これに驚いた秀秋が軍を動かし、東軍を勝利へ導いたといいます。
戦いののち、秀秋は岡山55万石に加封されました。それから2年後、21歳で急死。酒の飲み過ぎが原因ともいわれます。
基本ステータスについて
統率:62
武勇:53
知略:64
政務:62
主義:中道
凡将といったパラメータですね。
過去作だとパラメータが1桁台のものがあったり10~30ぐらいだったので、むしろ評価されている感もあります。
戦法・特性について
(戦法)
足止:敵部隊の機動低下。
(特性)
作事:城下施設の建設効率上昇。
「作事」があるのは、関が原以降の内政が評価されている形ですね。
総評
小早川秀秋は平凡な武将です。
ただ使えないというほどではなく、パラメータは60台前後あります。
「作事」もありますので、内政でも役立てていきましょう。
次回は小西行長です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。