『信長の野望・新生』武将能力:島津義弘の評価は?【武将評価シリーズ・その11】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第11回目は、九州最強の武将「鬼島津(鬼石曼子)」こと島津義弘(しまづよしひろ)です。
「鬼島津」の知名度のほうが高いですしね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の長宗我部元親は以下のリンクから。
人物について
島津義弘は島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の次男です。父は島津貴久。
永禄9年(1566年)、父・貴久が隠居すると、兄・義久が家督を継ぎました。
義弘は兄・義久を補佐し、いくさ方面で活躍をしました。
元亀3年(1572年)、日向国の伊東義祐が3千の兵を率いて攻め込んできたとき、わずか3百の兵でこれを返り討ちにしました。わざと負けたふりをして敵を誘い、3方向から敵を囲む包囲作戦「釣り野伏」が成功したのですね。
「釣り野伏」自体は弟・家久の考案ともいわれますが、「囲んで殴る」自体は島津氏の得意技でもありました。
天正5年(1577年)、今度は大友宗麟が攻めてきます。
このときの「耳川の戦い」も伏兵を使った包囲攻撃で、大友宗麟の軍を退けました。
九州統一目前まで迫った目前で、豊臣秀吉が「九州停戦令」を出してきました。島津氏はこれを拒否したことで、秀吉と対立することになります。
前回の長宗我部元親も、この派兵に参加しました。漫画「センゴク」で有名な仙石権兵衛(秀久)も参加していますね。
島津氏はこれら四国連合を返り討ちにしましたが、そのあとで秀吉が20万以上の大軍を送り込んできます。
圧倒的な兵力差に敗れ、兄・義久は降伏。
義弘は徹底抗戦の構えでしたが、兄の説得によって、子の島津久保を差し出すことで降伏を受け入れました。
天下統一後、秀吉は朝鮮出兵を敢行します。
義弘も朝鮮出兵に加わり、慶長3年(1598年)の「泗川の戦い」では7千の兵で大軍を討ち破るなどの活躍をし、敵から「鬼石曼子(グイシーマンズ。鬼島津)」と恐れられました。
関ヶ原の戦いにおいては、大坂にいた一千ほどの兵で西軍に参戦。
いくさは東軍が勝ち、その撤退戦において、義弘は「正面突破で撤退」を敢行しました。「たとえ討たれると言えども 敵に向かって死すべし」の名言で有名ですね。
敵につかまっても、味方がとどまって、全滅するまで敵を足止めする「捨て奸(がまり)」戦法によって、退却を成功させます。のちに「島津の退き口」として語られるようになりました。ただこの戦いで、家久の子・島津豊久が亡くなっています。
関ヶ原後は徳川家康と島津氏は和解し、義弘も許されました。
晩年は若者の教育に力を注ぎ、85歳で亡くなったといいます。
基本ステータスについて
統率:95
武勇:93
知略:84
政務:80
主義:革新
四男の家久が武勇97ありますので、そこから考えると低い気もしますね。
ちなみに「将星録」だと武勇97(家久は91)、「天道」だと105(家久は82)ありました。80台のときもありましたので、シリーズでけっこう評価がぶれていますね。
戦法・特性について
(戦法)
急襲:敵部隊の兵力減少。
(特性)
鬼島津:自部隊の兵力が少なくなると、攻撃上昇。
乾坤:合戦で積極的に退き口を攻撃。
砲術:自部隊の鉄砲LV上昇。
「捨て奸」を入れればよかったのにとは思いますね。汎用戦法なのが残念です。
ちなみに「釣り野伏」のほうは家久に取られてしまっています。
総評
過去作に比べて、本作の戦闘能力は控えめになってはいますね。
戦法もオリジナル戦法ではないので、どこか手抜き感があります。
今回はちょっと残念感がある能力でした。
次回は石田三成です。【追記】次回できました。下のリンクから。