『信長の野望・新生』武将能力:細川幽斎(藤孝)の評価は?【武将評価シリーズ・その110】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第110回目は、文化人としても名の知られた細川幽斎(藤孝)(ほそかわゆうさい(ふじたか))です。
明智光秀の盟友としても知られていますね。また日本の第79代内閣総理大臣・細川護熙の先祖でもあります。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の堀秀政は以下のリンクから。
人物について
細川幽斎は天文3年(1534年)、三淵晴員の次男として生まれました。7歳で和泉半国守護・細川元常の養子となり、「細川」姓となります。ちなみに「幽斎」はのちの雅号ですね。
幕臣として室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、従五位下兵部大輔に叙任されました。
永禄8年(1565年)に足利義輝が三好三人衆に討たれると、その弟・足利義昭を助け、擁立に奔走しました。このときに明智光秀を通じて、織田信長に助力を求めました。
信長の力によって、足利義昭は将軍の座につくことができましたが、やがて両者は対立をします。このときに、足利義昭の裏切りをひそかに信長に伝えたのが幽斎でした。
以降、信長の武将として一向一揆の鎮圧などにも参加しています。
天正6年(1578年)には、嫡男・忠興と、光秀の娘・ガラシャの婚儀が結ばれます。
しかし「本能寺の変」においては、幽斎は光秀の要請を断り、秀吉との「山崎の戦い」には参戦しませんでした。
一説では、幽斎のほうが光秀より身分が高いことから、その下に入ることを拒んだともされています。
以降、秀吉の重用され、九州平定にも参加します。秀吉の死後は徳川家康に取り入りました。
「関ヶ原の戦い」の年、石田三成が兵をあげると、幽斎は田辺城の守備につきます。2カ月の籠城戦ののち、最終的には講和して城をひきわたすこととなりました。ちなみにこの少し前に、大阪の屋敷を兵で囲まれたガラシャは、屋敷に火を放って自刃しています。
関ヶ原の戦い以降は、子の忠興ともども徳川政権下での重臣となります。慶長15年(1610年)、京都で死去。享年77歳だったといいます。
基本ステータスについて
統率:77
武勇:78
知略:88
政務:92
主義:中道
塚原卜伝から剣術を学んでいますし、京都で暴れ牛の角をつかんで投げ倒したという逸話もありますしね。
ただ過去作だと武勇60台だったことも多いので、最近評価された形になります。
それと政務(政治)は「革新」「天道」だと98ありましたが、現在は92と抑えられていますね。
戦法・特性について
(戦法)
足止:敵部隊の機動低下。
(特性)
能弁:外交取次時の信用上昇量増加。
策謀:特殊な調略具申が可能。
数奇:家宝をまれに入手。
「能弁」「策謀」を役立てていきたいところです。
総評
細川幽斎は内政に優れた武将です。
政務は92あり、「能弁」「策謀」といったスキルもあります。
また統率・武勇は80台近く、知略は88あるので、戦闘でも活躍していけるでしょう。
次回は細川ガラシャです。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。