『信長の野望・新生』武将能力:本願寺顕如の評価は?【武将評価シリーズ・その59】

2023年3月25日武将能力評価信長の野望, 信長の野望・新生武将評価シリーズ

honganzi kennyo

『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第59回目は、織田信長相手に10年に渡って抵抗を続けた本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)です。

一向一揆の主導者ニャ。

宗教指導者とはいえ、もはや国レベルの権力を持っていましたね。

そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の鈴木重秀(雑賀孫一)は以下のリンクから。

 

人物について

本願寺顕如は天文12年(1543年)、本願寺第10世の本願寺証如の長男として誕生しました。

天文23年(1554年)には父・証如が亡くなり、本願寺第11世となります。

弘治3年(1557年)、六角定頼の猶子・如春尼と結婚し、本願寺教如・本願寺顕尊・本願寺准如の三子をもうけました。

ちなみに如春尼の実父は三条公頼で、実姉は武田信玄の正室・三条夫人なので、顕如は信玄と義兄弟の関係にあります。

戦国時代は偉い人の結びつきが多いのニャ。

信長が足利義昭を利用して上洛すると、顕如は当初は信長に従っていました。軍資金を要求されてもおとなしく差し出していたのですが、信長の要求はどんどんエスカレートしていきます。

そしてついには耐えきれなくなり、元亀元年(1570年)に開戦することとなります。

よくあるパターンニャ。生かさず殺さずで追い詰め過ぎたらだめなのニャ。

足利義昭が信長と反目したことから、信玄をはじめとして浅井長政など諸大名が信長包囲網を形成します。これにのっかる形で、顕如も包囲網に加わったのです。

顕如は、前回の鈴木重秀(雑賀孫一)率いる雑賀衆や、村上水軍、毛利氏などの力を借りて、信長への徹底抗戦をはじめます。また下間頼廉など、将として優秀な部下もいたことから、織田軍を苦戦させていました。

最初は織田軍を撃退できていたのですが、元亀4年(1573年)に信玄が亡くなったことで包囲網が崩れます。

信長の進撃はとまらず、やがて石山本願寺は包囲されてしまいました。

天正8年(1580年)には、顕如は信長と和解し、石山本願寺を去ります。こののち、石山本願寺は火事で燃え尽きました。

10年間の長き戦いだったのニャ。

この10年が、信長の覇業を大きく遅らせた原因にもなっていますね。

信長が「本能寺の変」で亡くなったのち、顕如は秀吉と友好関係をもち、天正13年(1585年)には大坂郊外に天満本願寺を建立します。

天正17年(1589年)、聚楽第の壁に政治批判の落書きがされ、その犯人を本願寺がかくまったとのことで秀吉に叱責されます。

天正19年(1591年)に本願寺の拠点を京都に移し、これが西本願寺となります。

翌年に顕如は亡くなりました。享年50歳といわれます。

西本願寺は長男の教如が継ぎましたが、秀吉の怒りを買ったことで退去させられ、三男・准如が代わりにあとを継ぎます。

しかし秀吉亡きあと、徳川家康は教如にあらたな寺領を寄進し、これが東本願寺となりました。

こうして本願寺が東西に分かれたのニャ。

家康は本願寺の力を奪うため、あえて対立構造をつくったともいわれます。

さすがタヌキ親父ニャ。

 

基本ステータスについて

統率:84
武勇:68
知略:82
政務:94
主義:保守

能力高いニャ。政務は94あるニャ。

統率・知略も高いですし、戦える文官といった感じですね。

ただ過去作だと統率90越えの時期も多かったので、本作は低めに設定されているといえます。

 

戦法・特性について

(戦法)
混乱:敵部隊に混乱付与。

(特性)
自衛:自勢力内では自部隊の防御上昇。

用兵:敵部隊を挟撃中、自部隊の攻撃上昇。

砲術:自部隊の鉄砲LV上昇。

とくに際立ったスキルはないのニャ。

基本的には防衛向きですね。文官スキルが無いのは残念です。

 

総評

本願寺顕如は戦える文官といった武将です。

政務は94あり、統率・知略も80を超えています。

とくにめだったスキルなどはありませんが、戦場・政務と全方向で活躍できるとは思います。

頑張って信長に打ち勝つのニャ。

次回は下間頼廉です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。