『三國志14』武将能力:王朗の評価は?【三国志武将評価シリーズ・その165】|三国志14
『三國志14』三国志武将評価シリーズの第165回目は、王元姫の祖父でもある魏の重臣・王朗(おうろう)についてお届けします。前回の鍾繇は以下のリンクから。
人物について
アップデートで武将名鑑が入ったので、その画像を使っています。のちほどアップデートについての記事も書く予定です。
王朗、字は景興(けいこう)。東海郡・郯(たん)県の人です。
もとは王厳という名でしたが、のちに王朗と改名しました。子は王粛、孫に王元姫がいます。
経書に通じていることから郎中に任じられましたが、師である太尉の楊賜(ようし)が亡くなると、喪に服すために辞職します。
そののち孝簾に推挙され、三公の府(役所)に招聘されましたが応じませんでした。
徐州の刺史である陶謙は、王朗を茂才(秀才)に推挙しました。これによって王朗は陶謙の治中となります。
王朗は別駕の趙昱とともに、使者を派遣して忠誠の意を天子(皇帝)に示すことを陶謙に提案します。
陶謙はこれを実行し、結果、王朗は会稽の太守に取り立てられました。
会稽では古来、秦の始皇帝の木像を祭っていました。
王朗は着任早々、「始皇帝は徳のない君主」として、木像を取り除きました。また民を慈しむ政治をおこなったといいます。
やがて孫策が江東制覇を始めます。
功曹の虞翻は王朗に、孫策には勝てないので逃げるべきだと提案しました。
しかし王朗は、漢の官吏である以上、会稽を守らなければならないとして残ったのです。
結果、孫策との戦いに敗れ、王朗は降伏します。
孫策は王朗が儒学に明るく正しい人物だということで、処刑しませんでした。
王朗は財産を失ってしまいましたが、困窮の中でも道義に反する行為はいっさいしませんでした。
やがて曹操に召し出され、魏で出世していきます。鍾繇とともに、みごとな政治手腕を発揮していきました。
曹丕の代になると、王朗は安陵亭侯に封じられます。
王朗の政治方針は、罪に疑いがあれば軽いほうの罰をあたえ、刑を減らすことにつとめていました。
曹叡の代では蘭陵侯に昇進します。
王朗は『易』『春秋』『孝経』『周礼』の注釈を書くなど、学者としての活動もしていました。
そして太和2年(228年)に亡くなり、成侯とおくりなされました。
『三国演義』だと、諸葛亮との論戦に負けて憤死するなど、あまりいい役回りではありませんね。
今回はそんな王朗の能力を見ていきましょう。
基本ステータスについて
統率:47
武力:35
知力:79
政治:81
魅力:50
主義:礼教
政策:政令徹底(Lv5)(命令書が増加)
親愛武将:王元姫、華歆、許靖、楊彪
本作だと『三国演義』のほうを基準にしている感はありますね。
あと曹丕が禅譲の名のもとで、献帝から帝位を簒奪したのに絡んでいたことが評価を落としてしまっているかと思います。
そのあたり修正したければ、編集機能でといったところでしょう。
シリーズ全体でも魅力は低めです。政治力も、高いときで80台ですね。
個性について
名声:地域担当官に任命すると土地占領が拡大。捕虜になったときの身代金が増加。
人脈:登用、探索にかかる日数が短縮。
学者:君主と自分の主義がおなじばあい、毎ターン主義経験値を獲得。
小心:命令設定で、敵接近時「攻撃」、自主退却「不可」、追撃「許可」が選択不可。
癇癪:自ユニット、太守として所在する拠点が「挑発」にかかっている期間を延長。
『三国演義』だと、諸葛亮に論破されて死んだ人みたいなポジションですからね。ただ「名声」「人脈」は使いやすい個性です。
それと魏は「覇道」なので、「学者」は噛み合いにくいですね。
陣形と戦法
魚鱗、方円
とくに戦う必要もないでしょう。
罵声:敵の士気+攻軍ダウン。対拠点可。
これも『三国演義』基準のスキルですね。「戦法無し」よりはましといったところです。
総評
王朗は『三国演義』基準のため、能力値は低めに見積もられています。魅力も50ですし、政治も81と、他の重臣たちに比べれば低いですね。
やはり帝位簒奪は許されざる行為となっています。
「名声」「人脈」があるので、探索・登用や土地塗りつぶしの方面で頑張ってもらうのがいいでしょう。
そうですね。次回は華歆を予定しています。【追記】次回出来ました。