『信長の野望・新生』武将能力:直江兼続の評価は?【武将評価シリーズ・その25】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第25回目は、「愛」の兜でおなじみの直江兼続(なおえかねつぐ)です。
かぶるのに勇気がいりそうですね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の福島正則は以下のリンクから。
人物について
直江兼続の生まれにはさまざまな説がありますが、一般的には永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として生まれたとされています。幼名は「与六」。
永禄7年(1564年)に長尾政景が死去すると、その子の長尾顕景(のちの上杉景勝)は、上杉輝虎(のちの上杉謙信)の養子となりました。
このときに、直江兼続は上杉景勝の小姓として仕えたといわれます。
天正6年(1578年)、上杉謙信が死去すると、上杉景勝と上杉景虎とのあいだで後継者争いが勃発。
この戦いは上杉景勝が勝利しましたが、結果、上杉家は衰えていきます。
またこのときの内乱で直江信綱が亡くなり、直江兼続が直江家を継ぐこととなりました。
天正10年(1582年)、同盟を結んでいた武田家が織田家に滅ぼされたものの、同年に織田信長は本能寺で死亡します。
この混乱の中、上杉家には豊臣秀吉から「柴田勝家を牽制するために越中に兵を出すよう」指令が下ります。
上杉景虎はこれを引き受け、豊臣秀吉との関係を強化しました。豊臣秀吉が天下事業を成し遂げると、上杉家も繁栄することとなります。
また上杉家では狩野秀治が亡くなったのち、直江兼続の権力が強まり、外交や内政を担当するようになりました。
しかし豊臣秀吉が亡くなったのち、徳川家康が力を持ち始めます。
堀秀治が「上杉家が謀反をたくらんでいる」と家康に密告したことで、上杉景勝は呼び出しを食らいました。これを上杉景勝は拒否。
この拒否を伝えた手紙が、有名な「直江状」です。ただ内容については後世につくられたものではないかといわれています。
やがて「関ヶ原の戦い」が勃発します。
直江兼続は家康を挟み撃ちにする計画を立てていましたが、最上義光・伊達政宗の連合軍が足止めをしてきます。
そのあいだに、関が原では西軍が敗北。
直江兼続は敵の追撃をみごと防いだことから、敵側からも評価されることとなります。
関ヶ原の戦いの翌年、直江兼続と上杉景勝は家康に謝罪。会津120万石から米沢30万石へと減移封の処分がされました。
直江兼続は内政に力を入れる一方、家康との関係改善にもつとめました。
しかし直江兼続には息子がいなかったため、死後、直江家は断絶してしまいました。享年60歳でした。
基本ステータスについて
統率:85
武勇:75
知略:86
政務:94
主義:保守
過去作だと政治は80台が多かったのですが、「革新」以降からは90台になっています。どんどん数値が上がっている感じですね。
統率・知略も80台で、バランスのとれた武将です。
戦法・特性について
(戦法)
同討:敵部隊の兵力減少。
(特性)
盛名:城主のときに配下武将の忠誠上昇。
策謀:特殊な調略具申が可能。
能吏:街道に関する具申が可能。
内政型の武将ですね。
総評
直江兼続は、政務は90台、統率・知略も80台と、内政・戦争のどちらでも活躍していける武将です。
ただ特性は内政向きになっているので、戦闘での過度の期待は禁物かと。
次回は島左近です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。