『信長の野望・新生』武将能力:島津歳久の評価は?【武将評価シリーズ・その38】

2023年2月15日武将能力評価信長の野望, 信長の野望・新生武将評価シリーズ

simazu toshihisa

『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第38回目は、島津四兄弟義久義弘・歳久・家久一の知将・島津歳久(しまづとしひさ)です。

島津家のために犠牲になった人ニャ。

後世においても多くの人たちからその生きざまを称えられている人物ですね。

そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の鍋島直茂は以下のリンクから。

 

人物について

島津歳久は天文6年(1537年)、島津貴久の三男として生まれました。

祖父の島津忠良からは「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされています。

孫たちのよいしょが得意なおじいちゃんなのニャ。

初陣は天文23年(1554年)、17歳のころです。義久・義弘とともに、「岩剣城の戦い」に参加しました。このときは勝利したものの、翌年の「蒲生北村城の戦い」では重傷を負って敗退しています。

永禄5年(1562年)、北原兼正討伐の総大将に任じられ、横川城を攻め落とします。翌年には吉田城の城主となりました。

天正3年(1575年)には歌道を習うという名目で上洛します。実際には織田信長と接近するための工作などをおこなっていたといわれます。

遊びに行ったわけではないのニャ。

信長の亡きあと、豊臣秀吉の天下統一事業において九州平定がはじまります。

最初のうちは、歳久は秀吉を「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と評し、和睦を唱えていました。

しかし義久ら他の兄弟はこれを却下し、秀吉との戦いがはじまります。

最初は歳久が和睦、義久が抗戦だったのニャ。

しかし劣勢になって和睦が持ち上がったときには、歳久は「和睦には時勢があり、いまこのまま降伏すべきではない」として、義久・義弘が降伏したあとも徹底抗戦しました。

秀吉が泰平寺から大口に陣を移すとき、歳久は家臣・本田四郎を潜ませ、その籠に6本の矢を射かけさせています。さいわい空の偽籠だったことから、秀吉は一命をとりとめました。

今度は徹底抗戦になったのニャ。

負けるにしても、徹底抗戦したほうが、和睦時の条件をよくすることができると考えたのかもしれません。

朝鮮出兵においては、秀吉からの出兵要請を病気を理由に拒否。

さらに朝鮮出兵の後、島津家の家臣・梅北国兼が一揆を起こします。これに歳久の家臣が多く参加していたことから秀吉の怒りを買い、歳久を首を差し出すよう義久に命じます。

討伐軍が迫ると、歳久は家臣たちとともに逃げ、平松神社で自害しようとしました。しかし病で腹を切ることができず、家臣・原田甚次が介錯しました。享年56歳。

歳久が亡くなったときには、追手の兵士たちも号泣したといいます。

多くの人に慕われていたのニャ。

 

基本ステータスについて

統率:81
武勇:71
知略:92
政務:75
主義:革新

知略92あるニャ。

島津四兄弟は、義久が政務、義弘が統率、歳久が知略、家久が武勇と、それぞれが優れた点があってバランスがとれていますね。

ただ前回の鍋島直茂が93だから、それより劣るニャ。

鍋島直茂は全体的にステータスが高いですし、けっこう特別扱いされている感じもありますね。

 

戦法・特性について

(戦法)
罵声:敵部隊の防御低下。

(特性)
牢固:自部隊の防御上昇。

差配:合戦で積極的に味方部隊を救援。

射手:合戦で積極的に高所から射撃。

鍋島直茂と似たようなサポート型ニャ。

知将タイプだとこんな感じのスキルになるのでしょうね。「射手」があるのは、秀吉の籠を射た話からだとは思います。

 

総評

島津歳久は島津四兄弟の中でもっとも知略の高い武将です。

統率も81、武勇も71ありますので、野戦・攻城ともに活躍できるでしょう。

サポートスキルを活用し、他の兄弟たちと協力して戦っていきましょう。

非業の最期を遂げずに全国統一するのニャ。

次回は大友宗麟です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。