『信長の野望・新生』武将能力:足利義昭の評価は?【武将評価シリーズ・その29】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第29回目は、室町幕府最後の将軍である足利義昭(あしかがよしあき)です。
けっこう上手く立ちまわってはいましたけどね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の三好長慶は以下のリンクから。
人物について
足利義昭は、室町幕府12代目将軍・足利義晴の子です。天文6年(1537年)に生まれました。幼名は千歳丸。
母親は慶寿院で、同母兄には13代目将軍の足利義輝がいます。
そのため足利義昭は家督相続ができず、跡目争いをさけるため寺院に送られました。
永禄8年(1565年)、兄・足利義輝が三好三人衆らと対立し、母もろとも殺害されてしまいます(永禄の変)。
足利義昭は細川幽斎(藤孝)らの助けによって危機を逃れ、朝倉義景の庇護を受けます。
ここから足利義昭は帰洛のための助力を、全国の諸大名に要請していました。
これに応じたのが織田信長です。
また信長との連絡係としては、当時朝倉家臣であった明智光秀がとりおこなっていました。
足利義昭は信長とともに上洛。永禄11年(1568年)に14代目将軍・足利義栄が病でなくなったことから、15代目将軍として信長に擁立されます。
しかしそののち、三好三人衆に襲撃されます(本圀寺の変)。足利義昭は奉公衆の助けを借りて危機を逃れました。
信長は足利義昭保護のため、二条城跡に御所を築きました。
両者の関係は良好だったのですが、数カ月後、突如対立をはじめます。
足利義昭は朝倉義景・浅井長政に檄をとばして挙兵させ、信長と本格的に戦うこととなったのです。
しかしこの戦いは信長が勝利し、足利義昭は京都から追放されてしまいます。
足利義昭は毛利輝元のもとで庇護されました。
天正10年(1582年)に「本能寺の変」で信長が亡くなると、足利義昭は豊臣秀吉と和睦し、帰洛を果たしました。
天正16年(1588年)には将軍職から退いて出家。こうして室町幕府は滅びることとなります。
それからは秀吉の庇護を受け、慶長2年(1597年)に大坂城で亡くなりました。
基本ステータスについて
統率:28
武勇:37
知略:78
政務:68
主義:保守
政務は68と、低めに評価されていますね。立ちまわりがうまくなかったということでしょうか。
知略は78と、こちらも過去作と比べるとかなり落ち込んでいます。「革新」「天道」あたりだと、知略92・政治82みたいな感じでした。
基本的には内政官型のパラメータになっていますね。
戦法・特性について
(戦法)
治療:自部隊の兵力回復。
(特性)
人脈:遠国登用に関する具申が可能。
能弁:外交取次時の信用上昇量増加。
戦法も「治療」と、消極的な感じですね。そもそもの統率・武勇が低いので、戦闘向きではありません。
総評
足利義昭は統率・武勇は低く、内政向きの武将です。
特性に「人脈」「能弁」があるので、外交が中心になるとは思います。外交官として上手く使っていくのがいいでしょう。
次回は「井伊直虎」です。【追記】次回出来ました。下のリンクから。