『三國志14』武将能力:劉曄の評価はいかに?【三国志武将評価シリーズ・その119】|三国志14

2020年6月4日三国志武将能力評価三国志, 三國志, 三國志14武将評価シリーズ

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『三國志14』三国志武将評価シリーズの第119回目は、漢王室の一族で魏に仕えた劉曄(りゅうよう)についてお届けします。前回の華雄は以下のリンクから。

 

人物について

劉曄、字は子揚(しよう)。淮南郡・成徳県の人です。

後漢の光武帝の子である劉延阜陵王)の子孫といわれています。

漢の王族なのニャ。

兄の劉渙が9歳、劉曄が7歳のときに、母が病気で亡くなりました。

その臨終の間際に、母は劉曄たち兄弟にいいきかせました。

「あなたたちのお父さんの側近は、人にとりいって悪事を働くような人です。いずれ我が家にも禍がありましょう。あなたたちが大きくなったときに、この者を取り除くことができれば、わたしは思い残すことがありません」

劉曄が13歳になると、母の遺言を実行しようと、兄の劉渙を誘いました。

しかし劉渙は「そんなことはできない」といいます。

すると劉曄は、すぐに奥の部屋に入って側近を殺し、そのあと母の墓へ行って報告をしました。

13歳なのに、思いきりがいいニャ。

側近を殺されたことを知った父の劉普は怒り、人をやって劉曄を連れ帰らせます。

劉曄は父に、

「母の遺言です。勝手に実行した罰は、いかようにも受けましょう」

と頭を下げて謝罪しました。

劉普は劉曄に見どころがあると考え、けっきょく罰することはありませんでした。

13歳でこれだったら、たしかに見どころあるかもしれないニャ。

人物評価で有名な汝南の許劭(許子将)は、劉曄を「佐世の才(時の君主を補佐する才能)のある人物」と評価したといいます。

劉曄が20余歳になったころ、揚州では鄭宝が、荒くれ者たちを従えて幅を利かせていました。

鄭宝は民を追い立てて、長江南岸へ渡ろうと考えていました。この計画の首謀者として、名門の家柄である劉曄を利用しようとしましたが、当然劉曄は関わりたくありません。

そこで酒宴を催して鄭宝を誘い、その席で斬り殺してしまいました。

あいかわらず思いきりがいいニャ。でも魯粛の回だと、劉曄は鄭宝に仕えようとして魯粛を誘ってるのニャ。話が違うニャ。

このあたりは「魏書」の劉曄伝と、「呉書」の魯粛伝で記述が違っていますね。今回は劉曄伝の話で続けます。

鄭宝を殺したのち、劉曄は馬に乗って鄭宝の陣営におもむきます。そして鄭宝の部下たちに利害を説き、服従させました。

鄭宝の部下たちは、劉曄を新たな頭領にしようとしました。

しかし劉曄は自身が兵を持つことを好みませんでした。そこで鄭宝の部下たちを、廬江の太守・劉勲に任せることにしたのです。

武勇伝が多い人なのニャ。

おなじころ、劉勲のもとに孫策から「上繚の城を攻めてほしい」との願い出があり、その礼として宝物などが贈られてきました。

劉曄は劉勲に、

「上繚は守りが堅く、短期間で攻め落とせるものではありません。攻めているあいだに、孫策に国を取られてしまいましょう」

といいました。

しかし劉勲は聞き入れず、結果、孫策に留守を突かれてしまいます。劉勲は進退窮まって、曹操のもとへと逃げました。

孫策にだまされたのニャ。

のちに曹操が揚州で人材を募ったときに、劉曄を含めた5人の名士を召し寄せました。

曹操は名士たちとともに議論をおこないましたが、劉曄だけがいつも口を開こうとしません。

他の4人は、そんな劉曄をあざ笑いました。

これ、集団面接みたいなものなのかニャ。

そんなものかもしれませんね。

なんども会見がおこなわれ、曹操が口を閉ざして質問しなくなったときに、劉曄がやっとのことで意味深い言葉を使って、心に響く話をはじめました。

このようなことが三度あり、曹操は悟ったのです。

「劉曄の深淵な精神は、一対一の会見のときにだけ語らせるものであり、集団の場で語らせるものではない」と。

こうして曹操は他の4人を県令に任命し、劉曄だけは側近の腹心として使うことにしました。

やっぱり集団面接だったのニャ。

張魯の治める漢中を攻めたとき、曹操は兵糧不足から退却をしようとしました。

しかし劉曄は、

「引き上げるほうが危険です。戦いを挑みましょう」

と進言します。こうして曹操は兵を進め、張魯軍を敗走させて漢中を平定しました。

劉曄はさらに、劉備が蜀をとったばかりなのにつけこみ、

「この勢いで蜀に攻め込みましょう。蜀が安定すると、あの要害の地を落とすことは難しくなります」

と提案しました。

しかし曹操はこれを受け入れませんでした。

受け入れてたら、「三国志」が成立しなかったかもしれないニャ。

ただこの7日後に、曹操が「いまから蜀を攻撃するのはどうだ?」と言い出しましたが、劉曄は、

「いまはもう、蜀は落ち着いてしまいました。攻めるべきときではありません」

と逆に諫めました。

今回は、曹操はすぐに動けなかったのニャ。タイミングを逃してしまったのニャ。

関羽が討ち取られたのち、魏では、蜀が呉を攻めるかどうかで議論が起こりました。

ほとんどの群臣たちが、「蜀は小国なので、出陣はしない」という意見でしたが、劉曄だけは「劉備はかならず軍を動かします」といい、その予想はあたりました。

呉は魏に服従する様子を見せて、劉備への備えとしましたが、これに対しても劉曄は、

「切羽詰まってのことです。まったく信用できません。いまの状況を利用して、呉をとってしまったほうがいいでしょう」

と提案します。

これも実行されていたら、歴史が変わっていたニャ。

劉曄は、朝廷においてはほとんど人付き合いがなかったといいます。ある人がその理由をたずねると、

魏は帝位についてまだ日は浅い。わたくしは漢の王族の血筋でありながら、魏の腹心という立場です。人付き合いが少ないのも当然でしょう」

と答えたといいます。

あまり友達はいなかったのニャ。

曹叡の代になると、ある者が曹叡に、

「劉曄は忠節を尽くしているわけではなく、つねに上の者に同調しているだけです。ためしに、考えていることと逆のことを質問してみるとよろしいでしょう」

といいました。

曹叡が劉曄をためしてみると、実際にそのとおりだったため、以降は疎んじられてしまいます。やがて劉曄は発狂し、亡くなってしまったといいます。

なんだか悲惨な最期だニャ。

漢の王族だったから、保身もしなければいけなかったのかもしれませんね。そのために、上に同調していたのかもしれません。

今回はそんな劉曄の能力を見ていきましょう。

 

基本ステータスについて

統率:40
武力:32
知力:92
政治:73
魅力:69
主義:覇道
政策:兵器強化(Lv5)(井闌、衝車、投石陣形の効果が上昇)
親愛武将:郭嘉満寵、呂虔、魯粛
嫌悪武将:魏諷、孟達

知力92ニャ。

魯粛と並ぶ知力ですね。ちなみに魯粛とは仲が良かったので、親愛武将にもなっています。

それと劉曄は、シリーズの1のころは知力74、『三國志2』でも84でした。そこからは70~80で推移していますね。知力が90台になったのは『三國志10』になってからです。

ずいぶん評価されるのが遅かったのニャ。

むしろ急に評価が上がったことのほうが謎ですね。筆者的には、90台になったことのほうが違和感があったりします。

 

個性について

発明:自ユニットの陣形が兵器のばあい、攻城と破城が上昇。

明鏡:自ユニットを除く特定範囲内の味方ユニットが「混乱」になったさい、期間を短縮。

智嚢:提案に登場しやすい。

発明」持ちニャ。

『三国演義』のほうだと、官渡の戦いで霹靂車を発案しています。それが評価されているのでしょう。

本作の李典とキャラが被っている感じもあるニャ。

 

陣形と戦法

陣形

方円、井闌、衝車、投石

兵器がぜんぶそろってるニャ。

「発明」もありますし、これはもう兵器を使わない理由はありませんね。

やっぱり李典(「蒼天航路」仕様)っぽいニャ。
戦法

業火:発火。対拠点可。

井闌:ダメージ。対拠点可。

衝車:耐久ダメージ。対拠点可。

投石:ダメージ+耐久ダメージ。対拠点可。

兵器戦法もぜんぶそろってるのニャ。

敵の都市の状態に合わせて、兵器を使い分けるといいでしょう。

 

総評

劉繇は李典とおなじような、兵器のエキスパートです。

全種類の兵器を使えるうえに、それぞれの戦法を持っています。さらには「発明」の個性もあるので、兵器の能力は底上げされます。都市攻略のお供として連れていくのがいいでしょう。

また知力も高く、内政にも使っていくことができます。使い勝手のよい武将といえるでしょう。

都市攻めは任せるニャ。

次回は郭淮を予定しています。【追記】次回出来ました。