『三國志14』武将能力:劉曄の評価はいかに?【三国志武将評価シリーズ・その119】|三国志14
『三國志14』三国志武将評価シリーズの第119回目は、漢王室の一族で魏に仕えた劉曄(りゅうよう)についてお届けします。前回の華雄は以下のリンクから。
人物について
劉曄、字は子揚(しよう)。淮南郡・成徳県の人です。
後漢の光武帝の子である劉延(阜陵王)の子孫といわれています。
兄の劉渙が9歳、劉曄が7歳のときに、母が病気で亡くなりました。
その臨終の間際に、母は劉曄たち兄弟にいいきかせました。
「あなたたちのお父さんの側近は、人にとりいって悪事を働くような人です。いずれ我が家にも禍がありましょう。あなたたちが大きくなったときに、この者を取り除くことができれば、わたしは思い残すことがありません」
劉曄が13歳になると、母の遺言を実行しようと、兄の劉渙を誘いました。
しかし劉渙は「そんなことはできない」といいます。
すると劉曄は、すぐに奥の部屋に入って側近を殺し、そのあと母の墓へ行って報告をしました。
側近を殺されたことを知った父の劉普は怒り、人をやって劉曄を連れ帰らせます。
劉曄は父に、
「母の遺言です。勝手に実行した罰は、いかようにも受けましょう」
と頭を下げて謝罪しました。
劉普は劉曄に見どころがあると考え、けっきょく罰することはありませんでした。
人物評価で有名な汝南の許劭(許子将)は、劉曄を「佐世の才(時の君主を補佐する才能)のある人物」と評価したといいます。
劉曄が20余歳になったころ、揚州では鄭宝が、荒くれ者たちを従えて幅を利かせていました。
鄭宝は民を追い立てて、長江南岸へ渡ろうと考えていました。この計画の首謀者として、名門の家柄である劉曄を利用しようとしましたが、当然劉曄は関わりたくありません。
そこで酒宴を催して鄭宝を誘い、その席で斬り殺してしまいました。
このあたりは「魏書」の劉曄伝と、「呉書」の魯粛伝で記述が違っていますね。今回は劉曄伝の話で続けます。
鄭宝を殺したのち、劉曄は馬に乗って鄭宝の陣営におもむきます。そして鄭宝の部下たちに利害を説き、服従させました。
鄭宝の部下たちは、劉曄を新たな頭領にしようとしました。
しかし劉曄は自身が兵を持つことを好みませんでした。そこで鄭宝の部下たちを、廬江の太守・劉勲に任せることにしたのです。
おなじころ、劉勲のもとに孫策から「上繚の城を攻めてほしい」との願い出があり、その礼として宝物などが贈られてきました。
劉曄は劉勲に、
「上繚は守りが堅く、短期間で攻め落とせるものではありません。攻めているあいだに、孫策に国を取られてしまいましょう」
といいました。
しかし劉勲は聞き入れず、結果、孫策に留守を突かれてしまいます。劉勲は進退窮まって、曹操のもとへと逃げました。
のちに曹操が揚州で人材を募ったときに、劉曄を含めた5人の名士を召し寄せました。
曹操は名士たちとともに議論をおこないましたが、劉曄だけがいつも口を開こうとしません。
他の4人は、そんな劉曄をあざ笑いました。
そんなものかもしれませんね。
なんども会見がおこなわれ、曹操が口を閉ざして質問しなくなったときに、劉曄がやっとのことで意味深い言葉を使って、心に響く話をはじめました。
このようなことが三度あり、曹操は悟ったのです。
「劉曄の深淵な精神は、一対一の会見のときにだけ語らせるものであり、集団の場で語らせるものではない」と。
こうして曹操は他の4人を県令に任命し、劉曄だけは側近の腹心として使うことにしました。
張魯の治める漢中を攻めたとき、曹操は兵糧不足から退却をしようとしました。
しかし劉曄は、
「引き上げるほうが危険です。戦いを挑みましょう」
と進言します。こうして曹操は兵を進め、張魯軍を敗走させて漢中を平定しました。
劉曄はさらに、劉備が蜀をとったばかりなのにつけこみ、
「この勢いで蜀に攻め込みましょう。蜀が安定すると、あの要害の地を落とすことは難しくなります」
と提案しました。
しかし曹操はこれを受け入れませんでした。
ただこの7日後に、曹操が「いまから蜀を攻撃するのはどうだ?」と言い出しましたが、劉曄は、
「いまはもう、蜀は落ち着いてしまいました。攻めるべきときではありません」
と逆に諫めました。
関羽が討ち取られたのち、魏では、蜀が呉を攻めるかどうかで議論が起こりました。
ほとんどの群臣たちが、「蜀は小国なので、出陣はしない」という意見でしたが、劉曄だけは「劉備はかならず軍を動かします」といい、その予想はあたりました。
呉は魏に服従する様子を見せて、劉備への備えとしましたが、これに対しても劉曄は、
「切羽詰まってのことです。まったく信用できません。いまの状況を利用して、呉をとってしまったほうがいいでしょう」
と提案します。
劉曄は、朝廷においてはほとんど人付き合いがなかったといいます。ある人がその理由をたずねると、
「魏は帝位についてまだ日は浅い。わたくしは漢の王族の血筋でありながら、魏の腹心という立場です。人付き合いが少ないのも当然でしょう」
と答えたといいます。
曹叡の代になると、ある者が曹叡に、
「劉曄は忠節を尽くしているわけではなく、つねに上の者に同調しているだけです。ためしに、考えていることと逆のことを質問してみるとよろしいでしょう」
といいました。
曹叡が劉曄をためしてみると、実際にそのとおりだったため、以降は疎んじられてしまいます。やがて劉曄は発狂し、亡くなってしまったといいます。
漢の王族だったから、保身もしなければいけなかったのかもしれませんね。そのために、上に同調していたのかもしれません。
今回はそんな劉曄の能力を見ていきましょう。
基本ステータスについて
魯粛と並ぶ知力ですね。ちなみに魯粛とは仲が良かったので、親愛武将にもなっています。
それと劉曄は、シリーズの1のころは知力74、『三國志2』でも84でした。そこからは70~80で推移していますね。知力が90台になったのは『三國志10』になってからです。
むしろ急に評価が上がったことのほうが謎ですね。筆者的には、90台になったことのほうが違和感があったりします。
個性について
発明:自ユニットの陣形が兵器のばあい、攻城と破城が上昇。
明鏡:自ユニットを除く特定範囲内の味方ユニットが「混乱」になったさい、期間を短縮。
智嚢:提案に登場しやすい。
『三国演義』のほうだと、官渡の戦いで霹靂車を発案しています。それが評価されているのでしょう。
陣形と戦法
方円、井闌、衝車、投石
「発明」もありますし、これはもう兵器を使わない理由はありませんね。
業火:発火。対拠点可。
井闌:ダメージ。対拠点可。
衝車:耐久ダメージ。対拠点可。
投石:ダメージ+耐久ダメージ。対拠点可。
敵の都市の状態に合わせて、兵器を使い分けるといいでしょう。
総評
劉繇は李典とおなじような、兵器のエキスパートです。
全種類の兵器を使えるうえに、それぞれの戦法を持っています。さらには「発明」の個性もあるので、兵器の能力は底上げされます。都市攻略のお供として連れていくのがいいでしょう。
また知力も高く、内政にも使っていくことができます。使い勝手のよい武将といえるでしょう。
次回は郭淮を予定しています。【追記】次回出来ました。