『信長の野望・新生』武将能力:佐々成政の評価は?【武将評価シリーズ・その78】
『信長の野望・新生』武将評価シリーズ第78回目は、織田信長に仕え、黒母衣衆を率いた佐々成政(さっさなりまさ)です。
けっこう覚えやすい名前ですね。
そんなわけで能力を見ていきましょう。前回の蜂須賀小六(正勝)は以下のリンクから。
人物について
佐々成政は佐々成宗の三男として生まれました。生年についてはさまざまな説があります。
天文19年(1550年)、信長に仕えます。斎藤龍興との「稲葉山城の戦い」においては大いに活躍し、「黒母衣衆」の筆頭に任じられています。ちなみに「赤母衣衆」の筆頭は前田利家ですね。
1575年(天正3年)に朝倉義景を下した信長は、柴田勝家を北陸の総司令官とします。このときに成政が、前田利家・不破光治とともに、柴田勝家の与力となりました。いわゆる「府中三人衆」ですね。
しかし上杉謙信との「手取川の戦い」においては、これにあたった柴田軍とともに大敗を喫します。
しかし謙信の死後、混乱に乗じて領土拡大し、上杉景勝の魚津城を攻略します。
信長の死後、柴田勝家と豊臣秀吉の対立が深まります。成政は柴田勝家につきましたが、上杉景勝を相手にしていたことから「賤ヶ岳の戦い」に大軍を振り分けることができませんでした。
柴田勝家が自害したのち、成政は秀吉に降ります。ただし信長の次男・織田信雄を主君とする形にしました。
しかし1584年(天正12年)、秀吉は織田信雄と対立。徳川家康は織田信雄と組して対抗しました。こうして「小牧・長久手の戦い」がはじまります。
成政は秀吉側の前田利家の城を攻めますが、途中で秀吉と家康が和睦。
成政は納得できず、真冬の立山連峰を超えて家康に和睦を取り消すよう申し出ます。交渉はうまくいかず、成政は秀吉に降伏しました。
以降、秀吉の九州攻めに加わって肥後国の大名となりますが、国人らの反乱をおさえきれなかった責任をとらされ、秀吉から切腹を命じられました。享年53歳といわれます。
基本ステータスについて
統率:78
武勇:83
知略:82
政務:59
主義:革新
信長の家臣は本当に能力値の高い武将が多いですね。
過去作だと智謀は20~40と低めでしたが、だんだんと高く評価されるようになってきました。
戦法・特性について
(戦法)
用心:自部隊の防御上昇。
(特性)
人脈:遠国登用に関する具申が可能。
血気:合戦で積極的に部隊攻撃を行う。
竜騎兵:自部隊の鉄砲・騎馬LV上昇。
登用方面でも活躍できますね。
総評
佐々成政はバランスの取れた武将です。
政務は59ですが、統率・武勇・知略は80前後あります。
また「人脈」も持っていますので、登用においても活躍できるでしょう。
次回は池田恒興です。【追記】次回出来ました。以下のリンクから。