『三國志14』武将能力:沮授の評価はいかに?【三国志武将評価シリーズ・その101】|三国志14
『三國志14』三国志武将評価シリーズの第101回目は、田豊とともに不遇なあつかいを受けた袁紹陣営の参謀・沮授(そじゅ)についてお届けします。前回の田豊は以下のリンクから。
人物について
沮授は、冀州・広平郡の人です。子には沮鵠(そこく)がいます。
若いころから大志を抱き、権謀術数に長けていました。
州の別駕となったのちに、田豊とおなじく茂才(秀才)に推挙され、二つの県の県令を歴任します。
それからは田豊・審配と同様に、韓馥のもとで別駕となり、そののち騎都尉に任命されました。
袁紹が韓馥から冀州を奪ったのち、沮授は田豊らとともに袁紹に仕えます。
沮授は漢王朝再興をめざすため、「献帝を擁して天下に号令をかけるべきです」と袁紹に提案しました。長安では李傕と郭汜が内紛をはじめ、献帝が洛陽へ脱出しようとしている時期でした。
袁紹は、沮授の策を聞いたときは喜んでいたのですが、郭図と淳于瓊が、
「漢王朝はすでに衰退しております。これを再興させるのは困難なことでしょう。
仮に天子を迎え入れたのであれば、行動をするときにいちいち上奏する必要が出てきます。
それに天子の命令に背けば、勅令を拒否したことにされるでしょう。良策とはいえません」
といいだすと、袁紹はまた迷いはじめました。
沮授は食い下がって袁紹に、
「いま天子をお迎えするのは、時期にあった行動です。もしこの機会をのがせば、他の者に先手をとられてしまいます。迅速に動くことが、成功につながるのです」
といいます。
けっきょく袁紹は、沮授の策を採用することはありませんでした。
そうですね。曹操は洛陽にいた献帝を許昌へ移しました。そして献帝を利用して、周辺諸国への影響力を発揮しはじめます。
これを知った袁紹は後悔し、曹操に、
「天子を鄄城へ移して、そこを都にしてはどうか」
と提案しましたが、当然拒否されました。
ただ曹操も袁紹との関係を悪くしたくないため、献帝を通して袁紹を大将軍とし、鄴公に取り立てました。しかし袁紹は侯の位を辞退します。
袁紹は公孫瓚を滅ぼし、その領土と兵を併合して大勢力になったのち、献帝への貢物を怠るようになりました。
それから袁紹は、四人の息子たちにそれぞれ一州を支配させ、それによって跡継ぎの能力を調べたいと言い出しました。
沮授は、
「一匹のウサギが街を走れば、万人はこれを追いかけます。しかし誰か一人がウサギを捕まえれば、みんなは追うのをやめます。これは所有者が決まったからです。
後継者もおなじです。もめごとがおこらないよう、ウサギの所有者を決めることを考えてください」
と提言しました。しかし袁紹は聞き入れません。
沮授は退出してから、「禍はここから始まるのか」と嘆息しました。
のちに袁紹が亡くなると、息子の袁譚と袁尚のが争いをはじめます。これが原因で袁家は曹操に滅ぼされました。
曹操と袁紹の戦いがはじまると、沮授は田豊とともに、
「内政を充実させ、時間をかけて対応すれば、三年以内に事は定まるでしょう」
と持久戦を提案しました。
しかし審配と郭図は、
「いま兵力は、我々のほうがはるかに多いのです。曹操を征伐することは、手のひらを返すよりたやすいこと。ここで戦わなければ、あとになって曹操を始末するのは難しくなるでしょう」
といいました。
さらに軍の権限が沮授に集中していたことから、郭図はこれを機会にこういいます。
「沮授は内外の軍を監督し、その権威は全軍にとどろいています。もし力をつけたばあい、どうやって対抗するおつもりですか。外部で軍を統制する者に、内政に口出しさせてはなりません」
袁紹はこれを聞き、沮授を警戒しはじめました。軍を三つに分割し、沮授・郭図・淳于瓊にそれぞれ一軍ずつあたえる形にしたのです。
出陣にさいし、沮授は一族を集め、自分の財産を分配しました。
沮授の弟の沮宗(そそう)は、
「曹操の兵は問題にならないほど少ないのに、なぜこのような心配をしているのですか」
と聞きました。沮授は、
「曹操は策にすぐれ、そのうえ天子を擁している。我々は公孫瓚に勝ったとはいえ、軍は疲弊している。それなのに主君や将たちはおごっている。我々の敗北は、このいくさで決まってしまうのだ」
と答えました。
どんな者でも主君は主君ということで、忠義を尽くしているのでしょう。
たたかいが始まり、袁紹が顔良を派遣し、白馬津にいる曹操軍の劉延を攻撃させようとします。沮授がこれを諫めましたが聞き入れられず、顔良が関羽に殺されてしまったのは、顔良の回でも述べたとおりです。
この後も沮授は、曹操軍の兵糧が少ないことを理由に、何度も袁紹に持久戦を提案しますが、すべて聞き入れられません。
やがて沮授は、病気を理由に軍の指揮から外れました。
袁紹は怒り、沮授の軍を廃して、兵を郭図の軍に所属させます。
やがて烏巣の兵糧庫を曹操軍に襲撃され、張郃らが降伏したことで、袁紹の敗北は決定します。
退却時に、沮授は逃げ遅れて曹操軍に捕まりました。
曹操は、沮授とは幼馴染でした。そのことを持ち出し、「ともに国家を安定させようではないか」と勧誘します。
しかし沮授は、
「わたくしの家族は、袁氏に命を託しております。もし特別の思し召しを受けられるのであれば、どうかわたくしを処刑してください」
と答えました。曹操がなんといっても、袁紹を裏切る気はなかったのです。
曹操もそう思い、
「もっと早くにそなたを味方にしていれば、天下の平定は簡単だったであろう」
と嘆息しました。
曹操は沮授を殺さず、捕虜のままにしていました。
しかし沮授は袁紹のもとへ逃げようと謀ったため、やむを得ず処刑することになったのです。
沮授の子の沮鵠ですが、袁紹の死後は袁尚に仕えます。邯鄲の城を守っていましたが、攻め込んできた曹操軍に敗れ、城をとられてしまいました。それからどうなったのかは不明です。
ちなみに「三国演義」では、沮鵠は張遼と戦い、弓で射殺されています。
今回はそんな沮授の能力を見ていきましょう。
基本ステータスについて
統率:79
武力:35
知力:90
政治:89
魅力:76
主義:王道
政策:軍制改革(Lv5)(部隊、都市の士気上限が上昇)
親愛武将:田豊
嫌悪武将:郭図
田豊(知力93)に続いて、袁紹陣営では知力ランキング2位ですね。
全体の知力ランキングでは姜維、諸葛恪、程昱と並んで10位です。
1のころは知力88で、80台と90台を行ったり来たりしていました。
統率・政治も高く、使いやすい武将といえるでしょう。
個性について
督励:自ユニットを除く特定範囲内の味方ユニットが「足止」になったさい、その期間を短縮。
諌止:自ユニットを除く特定範囲内の味方ユニットが「挑発」になったさい、その期間を短縮。
慎重:敵勢力の罠から受ける被害が減少。
智嚢:提案に登場しやすい。
「諌止」「慎重」は田豊とおなじですね。
内政系は「智嚢」しかないので、戦場でのサポートで役立てていきたいところです。
陣形と戦法
雁行、方円、衝車
兵器がかぶっていますね。田豊と協力して、一気に都市を突き崩してしまうのもいいでしょう。
斉射:ダメージ。対拠点可。
鼓舞:味方の士気アップ。対拠点可。
鎮静:状態異常解消。
衝車:耐久ダメージ。対拠点可。
顔良・文醜に戦闘を任せて、「衝車」で行くのがいいとは思います。
総評
沮授は田豊に続く、袁紹陣営第2位の知力を持った武将です。
周囲の味方ユニットが「足止」にかかった期間を短縮する「督励」や、「挑発」期間短縮の「諌止」があるので、田豊とともにうまく味方をサポートしていきましょう。
「衝車」もあるので、顔良・文醜などの将に守ってもらいながら都市攻めをするのもいいかと思います。
次回は続けて袁紹陣営の郭図を予定しています。また前回予告した「ゲーマーのためのわかりやすい全訳『孫子の兵法書』」シリーズも並行して進行中です。
↓次回出来ました。
↓「孫子の兵法書」第2回目できました。